なるほどね

2008年1月14日 (月曜日)

精神的なわばり

 過密・過剰・・・都会で生活するには人が多すぎる・物が多すぎることから不快に感じるシーンに出くわす。例えばエレベーターや満員電車の中では他人との距離が近いために特に不快感を感じてしまう。

 ただ自分にとって親しい人だと近い距離であっても不快に感じない。これは心理的に人の距離感を分別しているのだと私は感じていた。

 今日手にした心理学の本にはこうした距離感を「精神的ななわばり」と表現していた。

 なわばり。人も生き物だと実感させる響きだと思う。なわばりと聞くと私は犬を思い浮かべる。散歩中におしっこを木などにつけたりする光景だ。

 私が読んだ本では、人間のなわばりは、40センチぐらいが親しい人間との距離(体が触れる距離)、120センチぐらいが個人的な距離(手が触れる距離)、そしてそれ以外が社会的な距離となるそうだ。特に関係ない人が120センチ以内に近づいてくると警戒したり、あるいは不快に感じたりするそうだが、確かに当たっていると感じる。

 しかし犬のように実際の行動でなわばりを示すのではなく、脳で自分のなわばりを決めてそこに入ってくる人を分別するのは、脳が発達した人らしいと思う。

 ただこの距離感は人の生活環境で変化するそうで、都会のように過密な空間では相手に対して無関心な態度を持つことで、自分のなわばりに他人が入ってくる機会で過剰に反応することを回避しているそうだ。

 都会の人が冷たく感じられる、あるいは集団でいると他人に無関心になってしまうのは、人のなわばり意識が関係しているとは思いもしなかったが、人も「なわばり」という動物的本能が残っているということが少し発見だった。

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2007年3月20日 (火曜日)

なるほどね。その2

今日もなるほどと思える言葉に出会った。
(出会ったの所は下条アトム風に言うとよい)

「昨日の贅沢は、今日は当然になり、明日は必需品になる」

最近ハイビジョンのHDDカメラが発売されて、欲しい欲しいとカタログを眺める日々。ビデオカメラはすでに持っているのに、欲しくなる。今の自分を言い当てている言葉でした。

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2007年3月14日 (水曜日)

格言だな。

 今日すてきな言葉に出会った。愛知にある中小企業の社長がとあるテレビ番組の締めの一言である。

 「人生にとって有名になること・お金持ちになること・偉くなることは人生の結果であって、目的ではない」

 久々に響く一言に出会ったように思います。いつも心にとめておきたいです。

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2006年12月21日 (木曜日)

きょうの名言

 人は「自分が何を知らないのか」といった事を「知らない」。

と言うことは自分のことを一番知らないのは自分なのか!(^_^)! 今更気づきました。本当に奥が深うございます。

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2006年11月29日 (水曜日)

町の基準

 物事を判断するのに色々な基準がある。例えば町が栄えているかどうかを判断するときにどんな基準で見るだろうか。

 歩いている人の数、夜に輝く夜景、流れる車の数と色々とあるだろう。

その中で一番最初に思いつくのは高層ビルといった建築物がどれだけあるかではないだろうか。私も建築物の多さを思い浮かべたが、ちょっと違った考え方に出会った。

 昭和初期、大阪市の市長を務めた関一氏はこんな言葉を残している。

「上を見て煙突の数を数えるだけではだめだ、下を向いて労働者階級の生活状態を見よ」

 この当時は工業化が進み、工場の煙突から煙りが登っている光景が都市が繁栄しているかの判断基準であった。少し前までの日本であれば当たり前であったと思う。しかし今の我々も上を見上げて、高くそびえるビルなどの華やかさで判断しているからあまり変わらないと思う。

 しかし関氏はそうした工業化のシンボルである煙突ではなく、一般人の暮らしぶりで本当の豊かさを見るべきであると唱えた。とても考えさせられる内容だった。

 今大阪市の市長を関一の孫が勤めている。行政の腐敗、大型投資の失敗、地場産業の低迷で大阪市を取り巻く状況は非常に厳しい。

 先日も大阪に出向いていたが東京と比べて公園にあるホームレスの住居などは大阪の方が目立つように思う。関一が言っているように、足元の生活状況をきちんと見ることで、町のあり方や豊かさを問い直す事は大事であると感じた。

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2006年11月21日 (火曜日)

近道が遠回りだった

 今日は大学から委託されている作業のため、大学と共同で講義を開設している高校に出かけていた。

 用件を済ませて談笑になるが、相手の先生が公民・社会担当だったからやっぱり聞いてみることは一つ、高校の未履修の問題だ。幸いな事に県内の公立高校では詳しくは教えてくれなかったが、抜け道があるらしく問題にはなっていないが、本筋はどうなのか知りたかった。

 話の内容から要約すると、高校で役立つ教育は何か?という事に突き当たる。

「倫理や歴史といった科目は大学受験には役に立たない。でもそれだったら塾でやればいいことで、過去問で対策すればいい」と先生は話していた。

大学入試の為だけの授業ではなく、モノの見方を身につけ自分に活かしていく事が本来の教育の目的であり、それが出来ると自分の考えを人に伝えることができるようになる。それが本筋だ。

でも大学入試だけの為に過去問だけやって、それ以外の教科はしない。さらにアメリカ流の実績だけが問われる。入試の方向ばかり、近道ばかりしているよう私は常々思っていた。

 私が話を聞いた高校の先生も同じような意見を持っていた。「入試のためだけの教育をしていると、社会に出る時に結果的にぶち当たる」と。

以前と違って社会からは自分の意見を持ち、想像力とコミュニケーション能力を持った人材が求められている。会社に入って前なら研修を受けながら能力を身につけていたが、今は自分で身につけなければならないし、即戦力として求められる。

それなのに、いつまでもHow to ばかりで近道ばかりしようとするやり方はどうかな?

自分の意見とか考えを持った人間にはなれない。そんな意見だった。

 そこの高校と私の大学は共同で授業を開設して、高校生と大学生がプレゼンテーションし合い互いの意見を戦わせたり、ゲームプログラムを作ってみたりと創造性が求められる講義をしている。そこでは物事に対する見方が問われたり、グループのメンバーとの協調性、自分のスタンスが求められる。

 その講義を受けた高校生は進学についても中々の成果を上げている。周りの高校からは色々裏があるのでと言われるがみたいだが。でも自分の考えが身に付いたり、堂々と自分の夢が語れるようになると、自然に人としての魅力も高まる。結果的にそうした人が評価を受けるのは当然だ。

 授業時間をけちってみたり、ごまかしたり近道ばかりしていると結果的に魅力がないだおる。多分そんな人は大学生になって、就職活動をした時に自分の考えや夢を語れないのだろうし、協調性もないかもしれない。成績は良いかも知れないが。

当然きちんとした教養があってだが、自分という魅力のある人間になることが求められる。それには近道はないのだなと思わされました。

 余談ですが、誰かこの大学の委託手伝ってくれませんか?ちょっと人手に困っているのですが・・・(^_^;)

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2006年10月29日 (日曜日)

きょうの名言

 「経験とは恐怖の解毒剤である」

なるほどね、慣れってホント怖いからねえ(^_^;)

人にとって最大の恐怖は「死」。その理由は解毒剤がないからだと、この名言から感じました。

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2006年10月27日 (金曜日)

荒削りのリアリティー

 事件が発生し、捜査をする時に必要なのは犯人の姿や人相である。その際に使われるのが似顔絵である。時々コンピューターを用いた合成写真を使う時もあるが大抵は鉛筆で書かれたスケッチである。リアリティーを求めるなら写真の方がいいのではないかと思うがそうではないらしい。今日は人のリアリティーについてのお話をしよう。

 写真と絵なら、撮影や描く人の技量にもよるが大抵は写真の方が情報量が多くので実際の姿に近いように感じられる。普段の写真なら特に思わないが、証明写真になるとなんだか変に顔が写ってしまうことはないだろうか。例えば免許証の顔写真。大抵の人は写っている顔に違和感を感じてしまう。免許証の場合諸般事情があるが、その他にも履歴書や証明書などに貼り付ける証明写真などもなかなか自分の気に入る仕上がりにならないことが多い。

 一方写真に比べて格段に情報量が少ない絵は描きようによってはおおざっぱな仕上がりであっても、顔の特徴的な部分を上手に捉えればその人にそっくりの似顔絵ができる。新聞の風刺絵などはそれに当てはまる。一方デッサンのように写実的に描く技法もある。裁判のスケッチや犯人の似顔絵などは一目見るだけで印象に残る。特にグリコ森永事件の犯人として描かれた「キツネ目の男」の顔は強烈な印象を放つ。

 この違いはどうやら人間の認知能力に影響されるようだ。それは単にリアリティーは情報量に比例しないという事だそうだ。

http://www.blwisdom.com/cogni/03/ 認知科学者の視点より

 絵は実物から比べるとおおざっぱだが、特徴的な部分をしっかり掴んでいれば人の顔だと分かり、イメージすることができる。元々の情報量が少ないから要所を記憶でき、実際と比較して、絵の特徴と実物とが重なれば「似ている」と感じることができる。

 一方写真は実物にかなり似ていて、細かな特徴まで掴んでいる。しかし細かいがゆえイメージや実物の姿と写真を何度も比較して、些細な違いに気づくことがある。これが違和感である。証明写真の自分は確かに自分の姿に間違いないのだが、普段の雰囲気や服装と違う。似すぎているが故に違いが余計に浮き彫りになってしまうから気に入らないと思う。これがスケッチが長宝されるポイントである。

 最初の話題に戻すが、犯人の顔を合成写真で作ってしまうと細かな特徴に納得がいかず、実物を見た時に違和感を感じるそうだ。一方像は荒いが特徴を掴みやすい(情報量が少ない)スケッチは絵の特徴だけ記憶に残り、実物とも比較しやすい。だから今でも犯罪捜査では人の手によって似顔絵が描かれるそうだ。何ともアナログな人間らしい感性だと思ってしまった。

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2006年9月10日 (日曜日)

なるほどの公式

 男×車=1 ちょっと変わった公式。

 この意味を解説すると、1というパイは変化しないその中での男と車のバランス関係を表している。

 自分に自信がない男ほど、車に走り気味で改造をしてみたり、あるいは爆音を鳴らして注目を浴びてみることで、普段の自分に対する劣等感を解消するらしい。改造をしなくとも外車であることを自慢する人も同じ。

 でも男性としての品格ができると、むやみやたらに自慢をせず車を楽しむ。

車というのは人を映し出す。例えば運転をすると普段おとなしい人でも、他の車をあおってみたり、スピードを出してみたり・・・大きなモノを操る喜び、あるいは優越感など色々あるが、何か特別な要素があるのだと思う。今日も爆音を鳴らして走っているドライバーを見かけた。勿論車はピカピカであった。車を磨くより男を磨く方がいいような気がするのは私だけだろうか。

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2006年9月 5日 (火曜日)

今日出会った名言

 今日はこんな言葉に出会いました。

「悲劇は極致に達すると喜劇に変わる」 チャーリー チャップリン

 確かに極致に達すると普通考えると無理な内容でも、笑って引き受けてしまう事、勢いあまってものすごい展開を考えてしまうことがある。でもその寸前は失意のどん底にあったり、疲労の限界(徹夜の徹夜を繰り返した作業など)で絶望的な状況だが。

あまりに度が過ぎてしまった時の笑いというのは、小さな事にくよくよせず、大局的に物事を見ることが出来るようになり、人を変えるのかもしれない。もっと分かりやすくすると、すべての要素をプラスにしてしまうようだ。おそらくこの言葉を発したチャップリンは笑いの力、本質に気づいていたのだろう。だからこそ彼の死後も愛される作品を生み出したと思う。

 日本でも「笑う門には福来たる」ということわざもあるが、哀しみの絶頂まで達し、笑いという峠を下るとすべてが明るく感じられ、その笑いが次ぎの幸福を呼び込むのかもしれない。

そういえば不安や哀しみといったマイナスの感情を時々感じるが、笑いという境地まで達していない。いつになったら際限ない苦痛は続くのだろう。これは一生つきまとうことかもしれないが、今は先が見えないが笑いという峠にさしかかったら人生が一気に明るくなるのかもしれない。そこまで至るにはどうやら、今の私ではしばらく時間が必要なのかも知れないとこの言葉に出会って感じました。

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2006年9月 4日 (月曜日)

ONとOFF

 私の日曜日は、いつも録りだめしておいた番組を早回しでチェックすることから始まる。経済や国際情勢、ドキュメンタリーからバラエティーまで放送時間帯には見ることができないので長宝している。しかし平日の疲れと日曜日のお休み気分も手伝っていつの間にか寝てしまう。そんな経験はみなさんあると思う。パソコンに向かっている時には寝ることはないのだが、どうしてもテレビを長時間見ることができない。なぜだろうか?

 私はパソコンを使うときの姿勢とテレビを見るときの姿勢が違いが関係していると思う。これは両者の使い方の違いからきていると思う。

 テレビを見るときイスに深く腰掛けたり、あるいは壁にもたれかけたり、寝転がったりと見る人間はリラックスして向かう。これは映画と同じで流れてくる情報を受け取るだけでいいからそうしている。体はどちらかと言えばOFFのモードになって映像を楽しんでいる。

 一方パソコンは受け手にも送り手にもなれる。キーボードで情報を打ち込んだり、あるいは検索して画面を見る。そんな時、みなさんの姿勢は少し前のめりぎみになってないだろうか。おそらくテレビを見ている時のように後ろにもたれていることはないと思う。つまり姿勢はONのモードになっている。

ただし10分以上の動画を見ているときは違ってくる。私の場合だとイスの背もたれが後ろに下がるのでどちらかと言えばテレビを見ているときの姿勢に近い。あるいは考える人のように手にアゴをのせて唸ってみたり・・・。少しリラックスしていると姿勢がOFFになってくる

 以前テレビはパソコンに吸収されるのではといった見方があった。確かにブロードバンドの普及があったり、録画ができるパソコンもあるいが、今でもテレビは健在だ。むしろ薄型テレビのおかげでリビングの主役として君臨している。一方テレビにインターネット機能を搭載したモデルやリモコンを使ってネットワークを介してサービスが受けられる機種が発売されているが、こちらもあまり普及していないし、使っている人の話も聞いたことがない。

テレビとパソコンが完全に吸収せずに両方とも残っているのには、人が楽しむ姿勢のONとOFFを使い分けている要素があるのかも知れない。OFFになっているからテレビを長く見ているといつの間にか寝てしまうのかと、番組チェックが終わって感じました。

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2006年9月 1日 (金曜日)

幸運も実力

 棚からぼた餅ということわざは何も努力しなくとも幸運に恵まれていることを示している。運も実力の内ということもあるし、そうかなと思っていたがある方のお話から少し物事の捉え方が変わったことがあります。

 そのことについて話してしたのは、お亡くなりになったが、ある有名な政治家。戦前から戦後にかけて中央官庁の役人であった。その方が官僚時代の先輩について語っていた。

その先輩は頭脳は明晰で出世街道をまっしぐらに進んでいたのだが、当時有力な政治家と距離が近いために「棚ぼた男」という言われ方をされたそうだ。しかしその方はこう反論する。

 もし棚からぼた餅が落ちてきたとしてもそれがおでこに落ちても仕方がない。つまり口にはいるよう必死になって下で踏ん張っていなければならない。確かに幸運は一度は巡ってくるかもしれない。しかし二度目、三度目はないだろう。

後から振り返ってみて、結果的に幸運に恵まれていたとしても、その裏側に本人の隠れた努力がある。努力をしているから運が味方につくのであって、その逆はないのだと。

 私は昨日、今日と松山で色々な方の話を伺った。例えば現在の大学での研究活動、あるいは地域における活動やサークル活動。内定者同士のコミュニティーなどなど。その中で私はなぜそのような事をやろうと思ったのか、あるいはどうやってきたのかという、人の思い、考え方を中心に話を聞いていた。

人の活動はとても見えやすい部分である。レポートや写真、話を聞けば内容は理解できる。しかしそれは人にとって水面の上に出た氷山の一角でしかない、つまり海の下には見えない大事な所がある。それは人の思いや価値観、アイデンティティーではなだろうか。それが基礎になって具体的な行動という形が現れる。

 しかし自分だけで出来ることは限られている。例えば街づくりでは地域の人の協力が必要であるし、研究活動には企業・行政・大学関係者の協力が必要になる。今日松山で伺った人の話では、様々な人の協力、あるいは環境に恵まれていたという要素が強くでていた。それは単に運が良かったのかも知れない。

ただその裏で、自分が進んでいる方向性や将来性への不安を常に抱えている。しかし課題に対して正面から立ち向かい、日々努力を重ねているからこそ、少ないチャンスの中で自分の考えや行動を示すことが出来き、理解してくれる人、あるいは協力してくれる人が現れ結果に結びついたのではないかと思う。決してラッキーだけでは片づけられない要素があったように思う。

 そんなチャンスを生かそうを努力してきた方々ばかりだったから、私のような人の話でも耳を傾け、質問に答えてくれたように思いました。そんな謙虚な姿勢と思いから学び、私も自分に巡ってくる少ないチャンスを生かせればと考えさせられました。

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2006年8月26日 (土曜日)

4㎞先のゴマ粒

 冥王星について昨日取り上げたので、太陽系の広さと大きさを実感させるデータがあったのでみなさんにも紹介しましょう。

 仮に地球が大きさが直径1㎝のビー玉だと仮定すると、太陽はなんと110㎝の子どもぐらいのサイズに。ちなみに木星は砲丸サイズの11㎝、特徴的なリングを省いた土星は9.2㎝のソフトボールサイズになる。ちなみに太陽系から降格がきまった冥王星は0.18㎝のゴマ粒サイズ。となりの海王星は3.8㎝のピンポン玉サイズだからいかに小さい星であるかよく分かると思います。

Image1

 ではサイズはそのままで、距離を当てはめてみるとどうだろうか。子どもサイズの太陽から地球までは約110m。太陽を東京駅とすると大体丸ノ内ビルあたり。分かりづらいでしょうか(^_^;)

私の手元に丸ノ内ビルがオープンしたときに撮影した写真があるのでそれであてはめてみましょう。丸ビルの位地にある地球から、砲丸サイズの木星は国際フォーラム(約500㍍)あたり。ソフトボールサイズの土星は銀座辺りと割と近距離。しかし、ゴマ粒サイズの冥王星ははるかかなた。東京駅の子どもサイズの太陽から約4㎞先のレインボーブリッジにあることになります。丸ビルから見てみるとレインボーブリッジがやっと見えるぐらい。橋自体は大きいので見えるのですが、ゴマ粒となると・・・いかに太陽系が遠いのかよく分かります。(資料は科学雑誌ニュートン別冊 最新探査がとらえた火星と土星より)

 これだけ遠くて小さな星であれば、分からないこともたくさんあって当然。ビー玉サイズで捉えた地球でさえ人類の知らないことだらけですからなおさらです。ただ多くの謎があることが、今回の冥王星の議論のようにように、人の興味をはるかかなたまで引きつけるのかも知れません。

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2006年8月24日 (木曜日)

人を変える力=情報力

 今日は最近読んだ唐津一著「かけひきの科学、情報をいかに使うか」からなるほど、と思ったことを紹介したいと思います。

 情報化社会と呼ばれている現代は、様々な情報が行き来し合いそれを元にして私たちは行動していますが、そもそも情報って何なのか?と問われてしまうと答えにくい所があります。さらにどう情報を活かし、行動するのかが様々なエピソードで書かれている本です。特に私は著者の情報に対する考え方に新鮮さを覚えました。

 情報と言われて思い浮かべるのは、例えばテレビ・新聞・ネットといったメディアを連想するのではないでしょうか。そもそもメディアという語源には、あの世とこの世をつなぎ神の言葉を伝える(イメージしやすいのは卑弥呼ではないでしょうか)巫女という意味があります。つまり人から人に伝える媒体なのです。だからメディアが流す情報とは単にどこかで起きた事が右から左に流れているだけという認識が私にはありました。

 しかしそれでは情報とは何なのか答えにはなっていません。この本では分かりやすく情報の意味を、毎年年末には話題になる忠臣蔵を使って説明しています。

 忠臣蔵はご存じのとおり、播州赤穂(現在の兵庫県)の四十七士と赤穗藩の当主浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた事件です。その日の内に加害者の浅野内匠頭とその同士達は切腹を幕府から命じられ死にます。一国の当主が死ぬという事は、それぞれの藩が当時は国と呼ばれたぐらい独立性が強かったことを考えると、現在では首相が死んだほどのショッキングな出来事になります。そのため切腹後すぐに江戸から早馬を出して兵庫まで伝令が向かいます。しかし馬での伝令は到着するまでに4日ほど必要です。その情報が届くまでの4日間、実際には殿様は切腹していますが、赤穗の人々の認識では殿様は生きていることになります。そしてその知らせが届いた瞬間、その人達にとって殿様が死んだことが分かる、つまり認識が変化することになります。

 著者は、このようにあることが起きていても、情報を手に入れるまでは、それがなかった状態と同じです。つまり情報とはそれが到着、あるいは手にしたとたん環境を一変させる力を持つ。これが情報の本質だと説いています。

 知ると認識を変えてしまう、なるほどと考えました。この本を読んで情報に対する考え方が私の中ではっきりしました。と、いうことはこの本には私が求めていた情報があったということになります。そう考えるとマスコミとったメディアは少しでも話題性を高めよう、(人の認識を変えたい)という心理が働いてショッキングな話題を求める。だから芸能人のどうでもいいような密会や離婚を取り上げるのか・・・と納得。私の後ろにあるつけっぱなしのテレビは、そんなに深刻な問題でもないのに国債残高800兆円あるとか、どうやっても100年単位で人口が減少するのに、少子化が大問題だと取り上げています。認識が変わるとメディアの流す情報の本質まで考えさせられました。

 最近、自分の認識を大きく変えるような本、あるいは考え方に出会いましたか?多分そんな考えを持つ人には直接会って話せるなら、聞いてみるのが一番刺激になると思います。実際の話を聞くのは迫力と説得力がありますから。私は早速著者の講演会がないか探してみることにしました。

 一つの情報の出会いが人の行動につながる。人を変える力=情報力ではないかと実感しました。

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2006年6月28日 (水曜日)

サービス業とは・・・

 先週から各地に出かけており、いつものカフェでコーヒーを楽しむ余裕もありませんでした。昨日ようやくその時間が出来、マスターと色々な話をしました。その中で私が感心した話を紹介しようと思います。

 マスターは「サービス業とは演技をお客さんに見せている事を意識することが大事だ」と言ったのです。確かにと私も思います。

 来店した際素早く駆け寄る、動作をきびきびする、さほど力を入れなくともいい所も一生懸命やっているように見せる事などなど。サービス業は人にサービスをしてもらいその対価を支払うのですから、いかにお客のことを考えて一生懸命やってくれているかが評価になります。その点で見られている事を意識することが大事になってきます。

 人は生活役者と以前紹介したことがあります。会社なら会社なりの、学校なら学校の、家庭なら家庭の自分のポジションがありそれに合った自分を無意識のうちに演じているのでしょう。ただ、それを意識することが仕事では求められます。

 そこでマスターはこう言いました。「対応をマニュアル化すれば、見られている意識を忘れてしまう」と。

 確かに不特定多数を雇用するチェーン店にとってマニュアルとは管理しやすい手法です。そして労働者にとってもこれをすればいいのだ、という基準になります。しかしマニュアルばかり気に取られて、相手が何を求めているのか、見られていることを忘れると。

 相手が何を望んでいるのか?常に問いかける姿勢から、「気づき」がうまれるのでしょう。また新たな宿題をいただいたように思います。

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2006年6月20日 (火曜日)

幸運にも努力が

 「棚からぼた餅」という言葉は普通努力をせずに幸運を掴むといった意味で使われている。例えば「あ~、宝くじ当たらないかな~」と、誰だって幸運が転がり込んでこないと、ふと考えることがある。

 そんな事を私の釣りの師匠と話をしていた時に、「棚からぼた餅」の例えはそうした意味ではない。と言われたときがあった。

 例え、棚からぼた餅が落ちるような幸運が訪れたとしても、そのぼた餅を口で受け止められなくては意味がない。だから必死の努力をし、口に入るようにしてこそ初めて幸運が訪れるのだと。

 何にも努力をしていない人には、幸運が起きても通り過ぎてしまう。宝くじが当たらないかと考えているぐらいでは何も良くならない。そんな淡い期待よりも、自分で切り開く事が大事で、どうにもならない時に「棚からぼた餅」が起きないかなと考えようと思いました。

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2006年6月10日 (土曜日)

文化と文明

 今日は私が聞いたこんな話を紹介したいと想います。テーマは文化と文明の違い。 

 文化とは作った人はその時代の中でイノベータが、自分たちが楽しむために産み出す。そのため周囲からはあまり評価されない。ただそれが長い時間をかけて、本質や世界観が認知される。そのため作った人々は便益を享受出来ないが、その後の世代で評価され、長きに渡って愛されるものだとおっしゃる方がいました。
 一方似て非なる言葉である文明をその人はこういいました。文明とはその時代の権力者が生み出し、便益も独り占めする。しかし利益の独占が人々の不満を煽りわずかな時代で滅びると。

 おそらくヒルズ族は、堀江氏や村上氏を見ると文化ではなく、文明にあたると私は事件を見ていて感じました。

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2006年5月25日 (木曜日)

聞いてみたかったこと

 最近ニュースとしてあまり聞かなくなった耐震構造偽装事件。私はこの事件が起きてから設計士の方に聞いてみたいことがあった。少し記者のような視点だが、この事件に専門家から見てどこに問題点があったかという事。

 ようやく知り合いの1級建築士さんにお会いする機会があった。その方は私が作業を手伝っているNPOの理事長をされている方で、いつも色々な話をしてくれる、ユーモラスを持った尊敬できる人物である。そこでこの件について聞いてみた。

 私が予想していた回答は「やっぱり信頼を失うような事はしてはいけない」と正論と、「依頼主から強く要求されると、どうしても答えざるを得ない」という内情を伺わせる内容のどちらか。大抵の人はこんな回答を予想すると思う。

 しかしその人は「作り手と住み手との信頼構造に亀裂を入れてしまったね・・・」と回答!!思わず、なるほどねぇ~(^_^;)とうなずいてしまった。これは山田君座布団1枚!!と言いたくなりました。

 その人は私がどんな回答をほしがっていたのか既に知っていたのか、あるいはいつものユーモラスなのかは分かりませんが、回答の持って行く所はすばらしいと感心しきりでした。私にもそんな才能が欲しいです。

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2006年3月11日 (土曜日)

あなたはNATOですか?

 先月大学院の講義を受けたが、最終日に講師の先生から、「君たちはNATO エビカニ軍団」には入らないようにとお達しを受けた。

 これを聞いたときに私をはじめほかの生徒は、まったく意味が分からなかった。私はアメリカ軍に入るつもりでもないし、軍事マニアでもない。それにエビカニ軍団とはなんぞや(?_?)エビちゃんは確かに有名になったが、カニちゃんっていたか?面白い考え方をする先生だから、はやくタネあかしをしてほしいと思いながら、答えを聞いた。

 タネあかしはこうだった。 「NATOとは別に北大西洋条約機構の軍事機関ではなく、Not Action Talk Only の略称だ」といわれたときに、ずっこけそうになった。

 確かにああすればいいのに、と口では色々言っていて、行動に移さない人はたくさんいる。テレビを見てもここがだめだ、と悲観論や批判ばかりする人。朝から政治家を呼びつけていかにも自分が正しい事を言っている、と興奮しながら司会者いますよね。だったらあなたが政治家になって出ればいいと思うのは私だけだろうか。

 で、「エビカニ軍団」はエビとカニは甲殻類で足はあるが、前には進まない。横だけ進む。だからそうならないように、常に前を向いて歩いていってほしい。という事だった。

 ここでいろいろ言っている私は当てはまるのかな?常にセルフチェックと、他人からの評価を真摯に受け止めて前進していきたいと思います。

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