以前私と親しい後輩のバイト先におじゃましたことがある。その人はデパートの地下食品売り場のレジを担当している。私が訪れた時間帯はお客さんも比較的少なく、友人もテキパキとお客さんをさばいていた。しかし私がレジの前に立つと、恥ずかしさからか、手元がぎこちなくなり何度も商品を数え直していた。でもこうした経験は誰にでもある。普段と接してる時とは立場も、こなさなければならない内容も異なる。友人なのにいらっしゃいませと迎える。当然といえば当然だが、変に気恥ずかしい。例えば学校の参観日の親の存在。親も子どもも家と学校とで雰囲気やふるまいが違う。だから恥ずかしくなる。もしくは友人が家族で買い物をしている所にばったり会ったりと、色々なシーンで恥ずかし思いをすることがある。でもどうしてそうした感情が出てくるのだろうか。
最近読んだ菅原健介著の「羞恥心はどこへ消えた?」でその答えがあったので紹介したい。
我々はそれぞれの空間でそれぞれ行動が違ってくる。例えば職場であれば普段使わない言葉遣いでお客を迎えなければならない。そこに普段の自分を知る人がやってきた場合に、本来の自分と職場にいる自分とのギャップを感じさせる事を恐れている、それが恥ずかしさに表れるのだという。お客と店員ぐらいなら、気軽に声をかけることが出来るぐらいかもしれないが、これがデートの現場でばったり合った場合ならどうだろう。普段とのギャップはもっと違うかもしれない。もしかしたら、「こいつ猫をかぶっているなあ」と思わせるかもしれない。だから恥ずかしさの度合いは、役柄と本来自分との差で変わってくるのだという。
そう考えると我々は職場や学校、もしくは公共的な空間でそれぞれの役柄、立場を演じている「生活役者」なのだろうと私は考える。
ただ公共的な空間での演出が、いわゆるジベタリアンと呼ばれる地べたに座る人には必要ないと感じている。
どうして公共的な空間で地べたに座らなかったり、車内化粧をしなかったと言えば、「誰が見ているか分からない」という心理が働くからだ。人の行動範囲はつい50年前まで、自分の住んでいる地域からあまり動かなかった。一生生まれた町を出なかったことも珍しくない。そのような小さなコミュニティーの中での行動には、周りとの良好な関係が必要となる。変な話題にならないように気をつけないといけない。だから「誰が見ているか分からない」という意識が生まれる。
そしてもう一つには、お互い顔見知りだから変なことをしていても注意してくれる人の存在があった点である。例え変な行動をしている人がいれば注意する人がいたからである。これは顔見知りでなくとも注意していたと思う。
その二つの感覚を多くの人が持ち合わせているから、地べたに座ったり、車内で化粧をしている人の感覚が、多くの人は理解できない。しかしそれは常識はずれの行動ではなく、常識の思いこみを若者が捉えているから出来るのだと思う。
まず他人の目が気になる意識はこう言える。集合住宅や宅地化で地域の中で人の出入りが激しく、隣が誰か分からない現代。だから人の細かな行動が話題にならないし、自分の耳に入ってこないから気にしなくて良い。隣とも良好な関係を築かなくとも暮らしていけるから必要性がない。
二つ目に誰かに注意されるという意識。実際にそうした行動をしている若者を注意する大人に私は出くわしたり、見かけたことはない。結局後々色々言いながらも、その場では無視をしている。結果的に誰か分からない人に誰も感心を向けず、そして注意しない。それを若者は気づいている。だから駅や公園といった環境でもプライベートと同じような行動が取れる。そう私は考える。
いつの時代も、大人の世代は「最近の若者は・・・」と論ずる。多分私もそう言っている。しかし昔を見ても、石原慎太郎の太陽族は当時の大人からは不良扱いされていたし、ビートルズの音楽は認められなかった。しかしそれぞれ時代を超えファッションや音楽は残っている。時代の価値観は常に変化する。若者は昔の常識を知らず今しか見ていない。だからズレは生じてくる。
そして時代の価値観も変化していく。その昔自動販売機でお茶を売っている光景を見て、ほとんどの人がお茶を買うぐらいなら水筒を持てばいいと思っていた。つまり常識とはみんながそう思っている事、暗黙の了解とでも言うべきだろうか。だからお茶は長い間自販機では売れなかった。しかし、実際に買ってみるとその手軽がうけ、逆に今では水筒を見る機会はめっきり減ってしまった。つまり思いこんでいたことが実際には違っていたのである。子どもに携帯なんかと思っていても、持たせた方が安心であるという考え方になってしまった。常に価値観は変化してゆく良い例だと思う。
若者の不可解な行動を嘆く人が多いが、これは新しい価値観が生まれている証拠でもある。多分これからも理解しがたい現象はこれからも起きると思う。その際には頭ごなしに否定をするのではなく、なぜそうした行動を取ったのか、我々が思いこんでいる常識と、常識が成立する前提条件当たりから、問いかけた方が、理解できるのではと私は思う。
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