身近な出来事から

2007年2月18日 (日曜日)

同じ言葉でも

 先日、ある役所で公園を管理している方と話をする機会があった。その方は苦情等があるので、年に数回公園などで野宿をしているホームレスの調査を行うそうだ。

 調べる内に興味深い事を見つけるという。それは高齢者のホームレスほど恵まれている事だという。

 その人が把握しているホームレスの人の半数近くが高齢者である。ほとんどの人が年金をもらい、身よりも存在し帰ろうと思えば身内の元で生活できるという。つまりあえてホームレスの暮らしをしてるそうだ。

 普通考えれば、年金をもらって生活が苦しいなら生活保護を申請すればある程度の生活ができると思ってしまう。でもそうしない。社会問題に取り組んでいる人の話では、ホームレスの人を説得し、生活保護を申請し住むところを用意しても家賃を滞納しやがて出て行ってしまう人が多いそうだ。どうやら家のような形のあるモノが自分にあると窮屈に感じてしまうらしく、自由に野宿をしている方が気が楽だそうだ。

 一方、若いホームレスの人は定職に就けず、日雇いのバイトで食いつないでいる状況の人が多い。寝るときには格安の漫画喫茶で寝泊まりをしているそうだ。

 同じホームレスで一括りにされてしまう人でも、年代によってこんなに違う。ここにも格差社会が生まれているのだろうか。

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2006年9月26日 (火曜日)

変わり目の感触

 今日電車に乗り込んで、手すりに触れた瞬間、小さかったが「バチッ・・・」という感触が。そう静電気が走ったのだ。今日は秋晴れでしばらく雨も降っていない。それに私はナイロン製の長袖のシャツを着ていたので9月でも感じてしまった。そろそろ寒い季節がやってくるのだと感じた。

 季節の変わり目を何で感じるかは人によるが、私は風邪や静電気といった自分の身近な出来事から感じる。

 高知のように南にある地域は秋や冬の昼間に動くと少し汗ばむ。その一方で、日がかげり始めると急に風が冷たくなる。だから服装に困ってしまう。朝は上着が必要だが、昼はは邪魔になるし、汗をかいてしまう。だからといって着なければ夕方はまた寒くなる。こんな毎日になると風邪を引いてしまう。今のところは大丈夫だがこれからが要注意だ。

 いやなことがある反面、昼間は過ごしやすく外で過ごしたくなる。今度カフェのテラスで休みの日にでも本を読みながらゆっくりしようかと思う。おいしいモノもたくさん食べたいし。でもお金とお休みがあればの話ですが・・・

 赤く染まった夕暮れを眺めながら、そんな事を考えながら家路を急ぎました。みなさんは何で秋を感じますか?

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2006年9月 8日 (金曜日)

働き者

 昨日は先月に新しいDVDレコーダーを導入してから初めて、ハードディスクからディスクに移し替える作業を徹夜で行った。映画やライブからドキュメンタリーまで普段の時間帯に見ることができないから録りだめしておいたが、あまりに溜まりすぎてついにハードディスクが一杯になってしまったからだ。

残念ながら今のDVDではハイビジョン放送の画質のままをディスクに記録できない。そのためハイビジョンの画質で残したいコンテンツはそのままの画質で移せるD-VHSに、とりあえず画質が低下しても残しておきたいのはDVDへと引っ越しをした訳だ。

 来年ぐらいから本格的に次世代DVDが普及し、ハイビジョン放送をディスクに記録できるようになるそうだがむしろ私は、録画した番組を見る時間が欲しい・・・(^_^;)

いくらハードディスクに記録できる時間が増えても一日は24時間。もう少し一日が長ければと思いつつ、結局は伸びた時間分だけ余分な仕事が増えるんだろうから、伸びない方がいいと悟りつつ作業を完了させました。

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2006年8月14日 (月曜日)

仕事=働く?

 ある親戚の方が最近の若者について話をしている時にこんなことを言っていた。それは仕事に対する考え方であった。その方が勤めている職場で、わずか3日で事務員として雇った人がやめてしまったという。

 その方は「仕事と働くという意味を分かっていない」と話していたのだ。

 労働とはある意味雇われ側から与えられた業務をこなす事。だから自分の給料の為にやるもので、働くとは意味が違うとのこと。「働く」とは読んで字のごとくはた、つまり周辺を楽にする意味があるとその人は考えていた。

 つまり自分がこれまで生きてて、誰に働きによって生きてきた事、誰によって育てられたかということを自覚しているかが問われるのだ。確かに働いて給料を得る事は自分が生活する為ではあるが、誰によってこれまで生活できて来たのかを考えれば、自然とその人の為に働こうと考えるのは普通だ。例えば両親から自立した生活を送ることで負担を軽減したり、安心してもらうことはよくある。

 今年で事後後21年経過したが、日航機墜落事故で乗客の遺書からは家族、特に子どもや親に対して今後のことを託す内容が多くある。決して仕事の細かい内容の引き継ぎを求める内容はない。つまりこの遺書を書いた人たちにとって取り組んでいた仕事には、自分の周囲のはたの人(家族など)を楽にしようという姿勢と思いがあったのではないだろうか。

 わずか3日で仕事を辞めてしまった人には、そうした思いがあったのだろうか。直接的に得た給料で家族を養うことをしなくとも、思いがあるだけでも行動は違ってくると思う。そうした心構えから仕事に入る前に求められるのではないだろうか。そんな事を考えました。

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2006年8月12日 (土曜日)

自然の打ち水

 日本人の暑さをしのぐ手段として古くから利用され、近年注目されているのが「打ち水」である。水をまき路面を冷やし、さらに水分が蒸発する際に周囲の熱を吸い取る気化熱の作用によって暑さを和らげることが地球温暖化によって深刻化するヒートアイランド現象を緩和する取り組みとして行われている。最近では打ち水大作戦として、全国一斉に打ち水を行い、気温を下げようとする活動まである。http://www.uchimizu.jp/06/about.html(打ち水大作戦2006HP)

 確かに打ち水を行えば温度を下げる効果があるのは分かるが、下手に一斉に行って水不足にならないのだろうか、と余計な事を考えてしまった。ちなみに打ち水ではお風呂の残り湯などを利用することが原則になっているようなので、その心配の必要性はない。

 でもそんな事をしなくても、自然はよくできたもので天然の打ち水が行って温度を下げる効果があることを今日実感しました。

 今日も夏の日差しがきつく、太陽の下ではじりじりと痛みを感じる程であった。特に高知は朝から晴天に恵まれ気温も上昇したが、真夏の祭典である「よさこい鳴子踊り」が行われ、市内各地で踊り子の熱気に包まれたのもあって、余計に熱かったように思う。 http://www.kochinews.co.jp/06yosakoi/06yosaphotofr.htm(高知新聞社HP よさこい祭り写真集)

 そんな高知も午後二時ぐらいから雲が立ちこめ風が強くなってくる。遠くで雷鳴が響くようになり、天気があやしくなってくる。Photo そんな気象の変化から自然の打ち水の効果を検証してみよう。(データはウエザーニュースより)

今日一日の高知市内の風向のデータ。午後から風が強まっていることがよく分かる。これから始まる嵐の前兆だったように思う。

Photo_1

風が強くなる一方で、日差しは雷音と共に立ちこめてきた雲によって遮られる。午後三時以降その状況が進む。日照のデータをみると、極端に数値が下がっている。雲に覆われてきた証拠だ。

Photo_2

風が強くなり、雷音と共に雲が立ちこめてくる。天気は下り坂かなと思うと、いきなり大粒の雨が降ってきた。夕立だ!!

 私は大学にいたので分からないが、踊り子の人や見物の人は大変だっただろうなあと思う。ちなみに雨量は15時は3ミリ、16時には4ミリを観測している。どれぐらいの雨か想像しにくいと思うので、1時間に1ミリの雨でたとえると、一坪(畳二畳分)に1.5リットルのペットボトルを2本分の水を1時間かけてまけばよい計算になる。これだと地面が湿る程度だ。この3~4倍降ったことになるが夕立は短時間に雨が勢いよく降り、たくさん降ったように思うが全体量は思ったほど少ない。雨脚は強いが短時間で止んでしまうからだ。今日の夕立も所々水溜ができたが、しばらくするとアスファルトの地面は乾いていた。

 Photo_3

するとどうだろう。雨が降ったおかげで温度が急激に下がった。

およそ7度も気温が下がる。今日一日の気温の上昇分を一気に下げた事になる。当然雨で地面が冷やされ、水分が蒸発し周りの熱を吸収したためだ。夕立によって打ち水と同じ効果が出たわけだ。

 自然の仕組みは良くできたものだと今日一日の天気を見ていて感心。この自然のリズムを崩してしまう地球温暖化の怖さも併せて感じました。打ち水よりも夕立の効果の方がなんと合理的で効果的か。こうした自然本来が持つ仕組みを活かすためにも、京都議定書などの地球温暖化の対策を進めるべきではないかと思います。

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2006年8月 5日 (土曜日)

あなたの町の将来

 最近研究論文の為、色々な論文や資料をあさっていると面白いデータやホームページにたどり着く。今日はあなたの町の将来像をちょっと予想してみよう。

 今日のニュースで日本の総人口が住民基本台帳(市役所にある住民票の数)ベースで初めて減少したことが確認された。去年よりおよそ3000人減少したそうだ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060804-00000111-yom-pol(yahoo.newsより)

 たった3000人と思われるかも知れない。でもこれから100年は日本は人口減少社会が続くことになる。でも具体的にイメージできない人もいるかもしれない。ではあなたの町ベースで将来人口がどうなるか、予想できるサイトがある。

 http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Shou/S_Jouken.asp(国立社会保障・人口問題研究所 小地域人口予想サイト)

 このサイトであなたの町の約100年後の人口予想が出来る。例えば私の出身地である高知県馬路村(現人口1200人)を選んでみる。2000年の段階で私の村の合計特殊出生数(つまり女性が一生の間に産む子供の数)は1.67になっている。このペースで子どもが生まれ、世代交代が100年続くとどうなるだろうか。2100年には人口が約1/10の216人になっている。(T_T)これでは地域は維持できません。

 だからと言って単純に市町村合併で問題が解決するわけではありません。例えば市町村の業務は町の規模には関係なく規定されています。例えば小規模な町村は社会保障(教育・福祉)や住民票といった実際に地域で活動する、あるいは地域の実情を反映した業務はそれぞれの地域で展開するべきでしょう。ゴミ処理・介護保険・文化施設といった大きな業務は市町村連合で行うなど、国と地方、あるいは都道府県と市町村のあり方をこうした人口変化を下に考えていくべきでしょう。こうしたデータを基礎に地方のあり方を末端から考えていくべきだと私は思います。

 このデータはこの地域の人口の若い人が指定された数値で子どもが産み計算なので、他の地域から人が来ることは考慮されていないので、一概にはいえないが日本全体が人の数が減るのだから大体この数だと思われる。あなたの地域はどうでしょうか。日本の平均出生数1.29で推計すると結構ショッキングな数字が大体出ると思いますよ。

 ちなみに、私の村は明治時代の平均出生数(10.8、この数値もすごいが)であっても、人口減がストップするには25年も必要でした。(25年も続けるのは無理、やっぱり過疎の村はこれから厳しい時代になるのですね)

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2006年8月 2日 (水曜日)

はかない命が犠牲に?

 最近、夜に大学に出入りする機会が多くなりました。昼間は自転車天国といわんばかりに、建物の周りに学生の自転車が並び、狭いキャンパスを行き来するのも難儀な程、学生がいますがさすがに夜になると人影もまばらになります。もうすぐ高知はよさこい鳴子踊りが始まりますから、学生グループが夜遅く街灯の下練習をしているぐらいです。夜だと静かに文献も読め、研究室を独り占めできる。そんな日々が最近続いております。

Kochi_u

 

邪魔くさい自転車が覆う私の大学のキャンパス。試験期間前になると学生がいつもよりも大学に集まって、真面目に勉強(?)しているからこんなになります。

さて、学生が去ったキャンパスはまるで祭りが終わった後のように人影もなく、静かなハズですが「うるさいやから」がいます。夏になったことを実感させてくれる存在。そうですセミです。昼間だけでなく、街灯がついていると夜も鳴いています。それが何重奏(何匹も一斉に鳴くと)にもなると頭が痛くなってきます。おまけに明るく照らされた私の研究室の窓ガラスに体当たりしたりと、昼間の学生以上に(?)うるさい存在かもしれません。

 昼間自転車をよけながらキャンパスを歩いていると、街灯の周囲にセミの亡骸を見つけました。セミは夏の時期に交尾をし、枯木に卵を植え付けます。翌年の梅雨の時期に幼虫がふ化し、土にもぐり3~7年程度過ごします。そして地上に出て2週間程度活動し、その寿命を終えます。私は一生を終えたセミに出会ったのでした。

 でもこのセミはおそらく大学キャンパスで地上生活を送ったのでしょう。おそらく私が「うるさい」と感じていた夜にも鳴いていたのかも知れません。そう考えると人と自然のあり方を考えてしまいました。

 本来セミが夜鳴くことはありません。彼らの命は人が街灯を設置したことによって、昼も夜も鳴き続けていた事になります。夜鳴いていることでセミの寿命がどうなるかは知りませんので専門家に任せますが、彼らの命・本来あるべき姿が人によって変えられているのは事実です。

動物は環境に適応しようと進化します。人は環境を変える事で発展します。人が夜も活動できるように、あるいは夜の時間も利用したいから灯を開発し、利用する。確かに人は便利です。人は環境を変える力も技術もあります。それによって今の社会が成り立っています。しかしそれが思わぬ所で影響している事にあまり人は気づいてきませんでした。地球温暖化や環境の変化といった大きな形で現れたとき人は、その影響を認識するようになりました。しかし小さな変化は夜鳴いているセミ、あるいは街灯の周りにあるセミの亡骸といった人があまり気にかけない所から始まっているのかも知れないと、教えてくれたように感じました。

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2006年7月 4日 (火曜日)

神風をめでる

 もう7月。雨が降れば梅雨独特の湿度がもたらす不快さ、そして太陽が出れば気温の高さがもたらす暑さ、どちらにしても夏が近づいてくる時期です。

  私にとってこの時期、必需品となる小物があります。それは扇子。

No1_1  クーラーのない場所に出たときに少し風があるだけでも助かるもの。だから常時持ち歩いています。この扇子は東京国立美術館に立ち寄った際、ミュージアムショップで購入したもの。絵柄は国宝である「風神雷神図屏風」です。どこかで見たことがあるのではないのでしょうか。

 暇な時間には、閉じたり開いたりを繰り返したり・・・昨年は随分お世話になったので、今はかすかにしか分かりませんがこの扇子にはお香の香りがします。風の神である風神の扇子で仰ぐと、お香の香りもあいまって少し気持ちが安らぎます。これはある意味神風になるのでは?

 こんなにデザインが良いと、やはり浴衣姿で使う方が似合うのかも知れません。普通のスタイルで使っているとサラリーマンのスタイルに近いような・・・(^_^;) こうしたちょっとこだわりのある、小物を扇子以外にも揃えて行けたらと思っています。

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2006年6月27日 (火曜日)

白川村でのフォーラム

 昨日、高知に戻ってきました。金曜日からの4日間、合掌造りで有名な岐阜県白川村に出かけていました。正直疲れました(-_-)ブログも更新できなくてすみません。フォトリストで写真は紹介しています。併せてご覧ください。

 今回白川村へ出かけたのは、地方自治・地域づくりに関するフォーラムがあったからです。「小さくても輝く自治体フォーラム」というタイトル通り、人口が小さい小規模自治体が、市町村合併や国からの支援が厳しくなる中で、どうやって住民と協力して地域をつくっていくのか、というのがテーマです。今回も北海道から沖縄まで約300人の自治体関係者と学者、私のような学生が集まり先進的な取り組みを行っている地域の報告と研究内容を聞きました。

 私は大阪の自治体問題研究所のみなさんとフォーラムを回り、夜には大阪独自の交流会に参加しました。地元関川村議員の方と、長野県清内路村議員の方と意見交換をしました。関川村議員のお話は、合唱造りを維持してきた地域内の絆である「結い」と、合掌造りのある集落とない集落との地域内の格差についてのお話を伺いました。

 白川村の合掌造りの集落は30年程で屋根を葺き替えなければなりません。その作業は地元集落住民が協力して行われます。その葺き替え作業に報酬はありません。それは自分の家もみんなに作業をしてもらうから、報酬は求めない。地域内の協力の絆が「結い」と呼ばれる共同体精神があるからです。雪国で集落が孤立する地域での住民同士の知恵と言えるものです。この絆を活かし、地域住民と行政との協力で集落の自治が進められていました。この地域も市町村合併の話があり、住民との対話の結果圧倒的な反対によって自立の村を選択しました。この地域の場合人口が山間に点在し、白川村から合併相手の市役所まで80㎞もあり、職員が通勤するのは無理です。さらに議員も選出できず地域の意見を反映することが難しい点、そして住民同士が支え合う地域性がある事。特に屋根の葺き替えには住民同士の絆が必要であり、行政もそうした取り組みに協力してきた点、合掌造りは火災に弱く地域内で防げる仕組み(予防と消火)をこれからも守り続けたい。それが自立を決断した理由だったそうです。

 しかし、前途は多難です。合併した事で、従来共同して消防や屎尿処理、医療、介護保険などの小さな自治体で維持できない事業をやっていましたが、その取り組みの枠組みは相手側が吸収合併をされてしまいました。なんとか合併した相手と協力して行えるようになったものの、協力という形より委託になってしまいいつ打ち切られるか分からない不安。そして高速道路貫通による1観光地として通過点になってしまうのではないか、合掌造りのある集落とない集落との格差など、地域内を取り巻く不安材料は多くあります。そうした話を聞く中でも地域を維持したい、という強い思いが伝わってきました。思いに触れる事はやはりその人の顔を見ながらでなければ伝わってこない事です。それを強く感じました。

 フォーラム終了後、地域を散策する時間がありました。多くの観光客でにぎわっている地域に、住民も生活をしています。山間地で暮らす大変さとはまた違った大変さがあるでしょう。勿論観光客が増え、都会に出た子ども達が地元に帰ってきた好影響もあったと聞きましたが、住民にとってよそ者に覗かれているという意識はどこかにあるでしょうから。

 しかし人の住んでいる合掌造りと、住んでいない合掌造りでは、人の生活感から出る明るさが違っていました。集落で絆が結ばれるからこそ、この美しさが保たれる。都会が忘れた、人が忘れかけている美しさではないかと思いました。

 Sirakawa1_1

思わず写真を撮りたくなるような景色に出くわしました。

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2006年6月24日 (土曜日)

行ってきます!

 今日は岐阜県白川村で行われる小さくても輝く自治体フォーラムに参加します。月曜日には写真でいろいろと紹介しようと思いますので、それまでお待ちください。間の日に何か小話でもできればいいのですが。

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2006年3月17日 (金曜日)

税金支給、税金運営のギャンブル

 今回は競馬や競輪といったギャンブルと税金の関係について述べたい。

 先日雑学の本を読んでいて面白い記述があった。時々カジノで賭博行為があったとしてニュースになることがある。基本的に日本の法律ではギャンブル、賭博は禁止されている。以前に石原慎太郎東京都知事がお台場にカジノを作りたいと言っていたが、実現しなかったのはこのためである。

 では競輪や競馬、競艇といったギャンブルやパチンコなどはどうして認められているのだろうか。まず競輪や競馬などは個別の法律によって賭博・富くじなどの適用外となっている。基本的に収益は畜産の振興や選手の育成などに利用されるという文言で認められている。もう一つパチンコは一時の娯楽にという付記によって解釈されている。つまりパチンコはギャンブルではなく一時的にお金を預けているという解釈になる。だからパチンコ店と景品買い取り業者、景品をパチンコ店に卸す業者は分離し、お客は換金をパチンコ店以外の業者と行うことで違法にならないようにしている。法律を上手に利用しているとは感心するが、それが成り立つのも”あくまでも、預けに”行く人がいるからだろう。

 しかし私は競輪・競馬などの公営ギャンブルの必要性に疑問を感じている。それは税金でお客を集め、経営が赤字だから税金を投入し運営されている点である。

 先日競馬の開催日に郡部から競馬場への無料のシャトルバスが走っていた。車内は中高年男性で埋まっていた。こうした光景は決して珍しくない。例えば2ヶ月に1度の年金支払日以降開催されるレースには多くの高齢者で集まる。しかしよく考えてもらいたい。この人達に支給される年金は現役世代の負担と税負担で成り立っている。現在支給額の内、国税が50%負担している。年金をどう使おうが本人の自由だが、それを当て込んでシャトルバスを走らせて公営ギャンブルに人を集めている現状は少しおかしい。さらに現在多くの公営ギャンブルは赤字で苦しんでいる。当然税金による補填も行われているところが多い。国民の税金で年金のシステムが維持されていることには理解は示せるが、その税金を当て込んだ公営ギャンブルが行われ、さらに赤字補填に税金が使われる。これでは何のための税負担なのか理解できない。

 本来はこうした採算性の低い施設については閉鎖を進めるべきである。しかし進んでいない理由として雇用問題がネックにある。現在高知にある競馬場の職員や馬の管理などの職業すべてを合わせると、高知にある一部上場の地方銀行の行員数よりも多くなる。このため以前から赤字で経営が苦しいことが問題となっても閉鎖に至っていない。こうした現状は他の施設でも余り変わらない。高知競馬自体も経費の節減や、堀江貴文氏が所有していたホリエモンやハルウララなどで集客数は増えたものの、赤字であることに変わりない。

 全国の公営ギャンブル施設も当初は集客数が伸び、自治体の収入として貢献していた時期もあったが現在は金食い虫と化している。そもそも省庁の利権(競馬=農水省、競輪=文科省、競艇=国土交通省)と法律の目をかいくぐって出来ており本当にその目的が必要なのか疑問の多い公営ギャンブル。わたしはギャンブルの場があってもいいと思うが、そうした分野まで税金や政府(地方政府を含めて)が行うべき分野ではないと思う。そうした分野こそパチンコ店のように民間が行うべきであると思う。

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2006年3月16日 (木曜日)

よーく考えよう。

 タイトルを見ると、某保険会社のCMの有名なフレーズだか、今回は高まる投資熱について少し私の考えを述べたい。最近本屋を覗いても、株式や投資に関する本が高く積まれている。理由はインターネットによって手軽に、しかも店頭より安く株式が購入できるようになったこと、株式が個人でも買いやすい単位に分割されたり、税制面での優遇、低金利で貯蓄から投資に資金が動いているなど様々な理由があるが、要はみんな手持ちの資金を増やしたいからである。

 ただ株式の本質を見誤ると損もする。ライブドア・カネボウ・西武など一部上場企業であっても企業の不祥事によって株式市場から撤退せざる得ない。その場合の責任はあくまでも自己責任である。株式とは本来起業する人に投資をする目的で出来た制度である。株式によって出資する代わりに経営者を選任し、利益が出れば配当を受け取る。リスクは会社が倒産した場合に出資したお金は戻ってこない。つまり有限責任で会社の負債を肩代わりする必要性はない。あくまでも売買は株式を持っている人、欲しい人同士の交換であり、企業側に損失の責任はない。

 今回ライブドアの事件によって被害を被った人が達が、ライブドアに対して損害賠償請求を申請したが、これには私は疑問を感じる。この人達が被った責任は、会社側ではなく投資した本人にある。確かに会社が業績の改ざんを行い、投資家を煽って資金を集めた責任は問われて当然である。しかしそれを見て判断したのは投資家自身である。投資した人の名誉回復は本来の株式市場の趣旨から外れる。

 今回の事件で、不正な手段で株価をつり上げた責任は既に捜査が動き全貌が解明されている。そしてこれから裁判が始まる。会社の責任が確定すれば制裁を受ける。さらに株式の分割などの今回不正に利用された手段については法改正がなされ、事実上出来なくなる。さらに株式市場の監視機能は強化される。事件を起こした企業の退場、手段の撲滅、監視の強化などで株式市場を投資家にとって正しい判断が出来る環境は整いつつある。しかしその性質自体は変わっていない。あくまでも判断は個人の責任である。その点に気をつけて投資してもらいたい。

 株式市場で資産をつぎ込み大もうけした人がいると、メディアで紹介されるがあれば競馬や競輪で大金をつぎ込んでいる人と同じである。本来そんな無茶は誰もしない。株式の上下に一喜一憂し、一攫千金を得ようと考えるのは霞を食べて生きていくようなものである。

 投資でもこうした考えがある。イギリス人にとって競馬は貴族のステータスであるが、投資すれば当然勝つとき、負けるときがある。しかし負けても余裕のある資金だから痛くはない。むしろ「こんなに負けても余裕のある私はたいしたものだ」と考えるぐらいである。本来投資もそのぐらい考えなければならない。猫も杓子も株式に目がくらんでいる現状は、本当に健全リスク管理が出来ているとは考えにくい。株式、信託、預金など自分の資金とバランスを考えてリスクヘッジするべきであると私は考える。

 こう考えてるとお金も心を込めて使うべきである。例えば親が子どもに仕送りをする。親は子どもが将来出世して自分たちの面倒を見てもらう気持ちだったらこれは投資である。しかしうるさい子どもがいなければいいと思えばこれは消費である。そして子どもがいつまでも親のすねをかじり、それがそれでいいと考えれば単なる浪費である。本当に株式を買う場合には、その企業の将来性を買うぐらいの気持ちが必要である。その点をよく考えてもらいたい。

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2006年3月10日 (金曜日)

健康病?

 健康成分が入ったお茶のコマーシャルを見ていて、ふと思い出したことがある。ある講義を担当している非常勤講師が話していた内容を。

 別のある健康茶が話題になったときに「体脂肪が気になる方に」というキャッチコピーで売り出して好評だった。商品のうたい文句がその先生に響いた。中年になると誰しもが体脂肪が気になってくる。商品自体もサラリーマンを対象にしているから、対象としても当てはまる。その人はさっそく1日5本ぐらい飲みはじめた。多分どの商品かお分かりだろう。飲んだことがある人なら想像できると思うが、カテキンを大量に含んでいるから、とてつもなく苦く大量に飲めるしろものではない。しかし痩せたいという願望と、体脂肪が気になる人にといううたい文句が飲ませ続けることになる。

 それから1ヶ月程して健康診断を受けた結果は、体脂肪はあまり変化はなかったが、いままで正常だった血圧が高すぎる結果が出た。理由はお茶に含まれている塩分だった。そのお茶には塩分が通常のお茶に比べて多く含まれている。そのためそのお茶のボトルには「1日1本を目安に飲んでください」と書いてある。もちろんラベルの裏に小さな字で書いてあるだけで、その人はまったく気づかなかった。

 結果的に、その人はお茶を飲まなくなり、血圧も正常値にもとったという。それを思い出しながら、健康成分の入ったお茶のCMを見ると、また誰か健康願望に取り付かれた人が飲むのかな?と思った。

 こんな話は別に珍しい話ではない。イソフラボンが健康にいいと言われると、大豆イソフラボンを含む食品が話題になるが、一方でとりすぎると健康を害するという報道があった。毎日、毎日テレビや雑誌では「これが健康にいいと」いう話題が出ている。それにつられてというか、人の願望をくすぐられて買ってしまう人々。

 これが一種の健康病だと私は思う。人はどこか不安に思うことがある。それに効くという話を聞くと飛びつき、結局体を壊したり、または次から次へと健康という欲望を追いかけ人に押し付ける。自分だけでは不安になるから人に勧める。ダイエット器具もこれと同じ。最近は、ソフトドリンクではもう健康成分では受けなくなってしまったが、食品では「特定健康用食品」のマークがついた商品が、ほかの商品より売れているなど、健康という名のプレミアが効いている。

 こんな健康になりたいなら別に運動をしろとか言わないから、たとえば少し早く家に帰って家でご飯を食べるなど、体に対して多少のいたわりの気持ちと、精神的にくつろぐ方がいいように思う。たぶん家庭環境も同じだと思うが。

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2006年3月 7日 (火曜日)

話す=自分を知る。

 先日、私が以前所属していたゼミのメンバーと会い、大学近くのカフェで4時間ぐらい話し込んでしまった。(その後その場にいた先輩とも話したから6時間ぐらいは話し込んだ事になるが)

 普段あまり話さないから話題は次から次へと出てくる。相手の方は積極的に動く方なので経験も豊富で、私も話を聞きながら楽しんでいた。一方で私も相手が求める話題から、うんちくから昔話までと色々話した。

 これだけの長い時間話のだから、かなりの量の情報を話すという作業を通して外に出した。それを相手が帰ってひとりカフェに残って実感した。(単に話疲れただけだが)

 でもここで面白いのは話した内容を振り返りながら、「自分はこんな考えを持っていたのか」という事を改めて実感させらてた事である。会話が終わった後に、そんな事を考えた経験はないだろうか?

 情報や話のネタというのはありとあらゆる機会を通じて人は吸収している。例えばそれは人から聞いた話であったり、前に体験したことであったり、昨日読んだ本の内容かも知れない。それらの情報は出所は別でも、テーマは共通しており、話すときに出てくる。または頭の中で並び替えられて、自分独自の考え方になり、話す事により整理され、出てきて、確かめているという事になる。

 先日読んだコミュニケーション論の本にこんな記述があった。自分が会話として出した情報は、普通は自分が送り手であるなら送り手に向けて出していると思う。しかし実際には相手に送るための情報も、耳を通じて自分も話を聞いて確かめているという。

 そういえば上司や先輩から長々と説教を受けた経験はないだろうか。最初は話している本人は相手のため、もしくは教育のためという為に話しているつもりが、徐々に話している内容の美しさに話している本人が酔ってしまい、なかなか終わらない。自分で自己暗示をかけているような錯覚に陥るというから困ったモノである。ただ長い説教話につきあわされる時には、私は、話しては話の内容に酔っているのだからこれでストレス解消されるぐらいなら、聴いているフリをして相手を酔わせればいいと考え話を聞くようにしているが。

多分説教で話している内容は、話している本人にも過去に経験したことなどを思い出して作られている。普段は頭の中でため込まれている話題を引っ張り出してきているから、長くなる。そして「自分はなんて後輩思いなんだ」「自分はすばらしい経験をしてきた」と酔ってしまう。 

 話が横にそれたが、つまり人は単に情報を集めるだけでは発想は出てこないという事になる。情報を集めて、考えて、表に出す。この作業が必要だろう。私はこれはキムチと同じだと思う。つまり白菜を買ってきて(情報収集)、漬けながらかき混ぜて(考えて)、取り出して味わう(話す)という事。

 色々な情報を集めて、詰め込んでも適度にかきまぜないと発酵しない。人の知識や考え方も同様で、時々考え、相手や自分に言い聞かせるなどの刺激がないと忘れてしまう。昨日は私の情報の壺をかなりかきまぜながらネタを取り出したから、自分が無意識の間に考えていた内容まで出てきて、自分の考え方を改めて知ったように思う。

 人がコミュニケーションを取りながら、グループを形成して行動するのは、ひとりの思考には限界があることがあるのではないだろうか。互いの頭をかきまぜる刺激的な人の存在が必要だという事だろうか。三人集まれば文殊の知恵とは昔の人はよく言ったモノだ。みなさんも友人と時々は長話をしながら、頭の発酵を進めた方が、色々な視点を持ち日常が違った形で見えてくるかもしれない。そうした友人を持っている私は幸せだとつくづく感じる。またあの人とカフェで長話でもして、頭をかきまぜる事としよう。

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2006年2月15日 (水曜日)

ドア越しの姿勢

 今頃から4月中旬まで私の家のチャイムはよく鳴るようになる。相手は新聞の勧誘やコーヒー豆の販売、宗教勧誘、雑誌の購読、ふとんのクリーニング、など数えればきりがない。ならば居留守を使えばいいのだが、ふいに友人もやってくるので出なければならない。しかしドアスコープに問題があってよく見えない。私のマンションのドアは中から外に開く。そのために相手はドアが開く方に立つため覗いてみても誰か分からない。このブログをドアメーカーの人が見ていたらぜひ改良してもらいたいと思うのは私だけだろうか。

 そのため色々な人に玄関越しに会うが、人の個性がよく出ていると思う。例えば宅配便の業者でも淡泊で、無愛想な対応をしてくれないドライバーもいれば、動作が機敏で丁寧な対応をするドライバー。逆に丁寧すぎてこちらが恐縮したくなるぐらいの人もいた。確かに重たい荷物を持ち歩き、日々中走り回らなくてはならない職業だから仕方ないのだろうが、人の評価は一度会っただけで決まってしまう。それにどう答えるかがプロの仕事であると思う。

 確かに訪問販売業の仕事は相手も簡単に対応してくれない。勿論売り込みに来ている本人も重々承知である。だから動き回る人ほど打率が悪いと思って、「この家は大丈夫だろう、この家はダメ」と決め込んで来る。決して効率が良い仕事だとは思っていないからそうならざるを得ない。私のマンションの階では一番入口に近い私の家にはよく来る。しかし隣の隣の友人の所にはあまり来ないという。ある日作家の日下公人さんの本を読んでいてこんな記述があった。彼の友人のセールスのベテランに「あなたぐらいのベテランならどの家が買ってくれるか一目で分かるでしょう」と話しをすると「絶対玄関を見ただけでは買ってくれるかわからない」と断言している。一日50軒も訪れ、帰宅後は足のマメを削るらしい。「訪問件数を何とか30軒に減らして同じ成績を出そうと考える人は駄目だ」とも言っている。

 物事に対して全力で取り組む姿勢が、結果的にこの人の成績につながっているから、この発言につながっていると思う。オリンピックのアスリートを見ていてもそれが見えてくる。常に自分に対して妥協せずに努力し改善し続けること。それが正攻法で確実な方法なのだと分かる。私も少しでも見習いたいと思う。

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2006年1月19日 (木曜日)

たわいもない会話から

 今日は私と仲の良い後輩と知り合いのカフェで長々と話してしまった。話の内容はたわいもない事である。ドラマの話・先生の好き嫌い・バイト先の裏話・これからやりたいこと・・・必要ではない事だが、次から次へと話題は膨らみ尽きない。結局時間はあっという間に過ぎて閉店時間まで話していた。その友人はそのカフェの空間はゆったりしていて、私との会話もいつも楽しいと話してくれる。私も同じである。なぜこんなにゆったり出来るのだろうか?今回はその辺を少し考えてみたい。

 カフェのゆったりした雰囲気。それはおいしい飲み物とマスターとの会話、ゆったりとしたジャズの音色が作り出しているように普通は思う。でもそれだけでなく、そこにいるお客さんもその雰囲気を作っている。一人本を読んでいる人、友人と会話を楽しんでいる人、それぞれのくつろいだ様子が、カフェ独特のゆったり感を作り出している。おしゃれな街にはおしゃれな人が集まり、気迫あふれるプレーが見えるスタジアムには、客の熱気が全体を包み込んでいる。客が雰囲気を産み出し(同時生産)、楽しんでいる(同時消費)と私は思う。

 と書いたのだが、確かに私たちが来た時にはお客さんはいたが、後半はすでに帰っていた。マスターは裏で明日の仕込みをしており、お店の中は私と後輩だけだった。雰囲気は確かにお互いが作り出したかもしれないが、それだけでは4時間も話し込んだ事を説明しにくい。どうやら他の要素もあるようだ。

 食べることも着ることにも不自由を感じない。おまけに大学生は案外時間に余裕がある。こうなると行き着く先は知的な刺激が欲しくなる。ある意味サロンとでも言うべきだろうか。フランス貴族はおしゃれな部屋に音楽や美術品、など素敵な空間を作る事に力を注ぎ、やがていろんなゲストを呼んで会話を楽しんだ。それがサロンである。ゲストには貴族だけでなく、芸術家や学者など呼び、そこからもたらされる情報や刺激を楽しんだ。芸術はその貴族の力を示し、ある意味ステータスを築く大事な要素であった。私で当てはめれば、知的な刺激は、後輩のバイトの話・実家の話などだろうか。思わず「ふーん」と言いながら色々つっこんだ質問をしてしまう。そしておしゃれなカフェの空間がステータス(多少飲み物の値段も高いから)だったのかなと思ってしまう。

 でも会話の内容はそんなに知的レベルが高いわけではない。次から次へ浮かんでは消えてゆく、たわいもない会話。でもほほえみは絶えないし、楽しい。楽しいことが瞬時に生まれて、消えてゆく。そこも特徴だと思う。例えば、テレビをつければお笑い芸人が自分の持ちネタで客を楽しませる。多分時間は5分ぐらいである。どうやら現代の楽しい刺激は短い方が受けるようである。笑いや楽しいという感情は何度も同じ内容だと切れ味を失ってしまう。何度も聞いているギャグや飽きてしまうし、同じ話題はあまり聞きたくない。さらに、楽しい刺激も大きな形だと結構しんどい。腹を抱えて笑うと息苦しくなってしまう。だから小さな刺激が次々と来るから、こちらも飽きずにリラックスして話が進んでいくのだと思う。
 
いつまで話しても話題に事欠かない友人は、誰でもいると思う。楽しむスタイルは人それぞれだが、互いにとって楽しめる空間を持っている。その空間を見ればその人らしさが伺える。きっと私と後輩にとってあのカフェは互いのスタイルに合っていて、相互が気づかないうちにカフェの空気感を作って、会話を通して楽しんでいるのだと思う。そうしたあなたらしい空間を持っているだろうか。それがあなたの個性とステータスを示していると思う。

 次回はどんな会話で盛り上がるのだろうか。またあのカフェで後輩と楽しい時間が過ごせることを楽しみにしている。

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2006年1月 8日 (日曜日)

好みの移り変わりから

 あなたの好きな食べ物は何か。私は食べ物ではないが、コーヒーがあればほっとする。今日もいつも通っているカフェで、マスターや奥さんに勧められて何杯飲んだ事やら。みんなそれぞれ好物はあるが、それも時代背景や様々な要素を的確に示しているから結構おもしろいのである。今回はそんな話をしたい。

 私の祖父母の世代にとって高級品と言ったらすき焼き、しかも鯨肉であったようだ。私の祖父母が暮らしてた地域は、山間地で肉が今ほど流通していなかったから、鯨肉の入ったすき焼きはぜいたくな食べ物であったそうだ。財務大臣をしていた塩川正十郎、通称塩爺は日本の財政の厳しさを「母屋でおかゆをすすって、離れですき焼きを食べている」と例えた。解説すると国民から集めた税金で決める予算(一般会計)はつましいが、年金や郵便貯金を使って決めている予算(特別会計という)はどんどんお金を使っているという事。ミソは贅沢さをすき焼きに例えている。これは戦前を生きた人ならではの表現であり、当時の食料事情を伺わせる。もし今の子ども達に今晩の夕食がすき焼きだと言ったらどんな反応を示すか。「えー、すき焼きなの」ってブーイングが起きるかも知れない。

 食の好みは時代によって変化する。高度成長期の子ども達ならカレーやラーメンなどを挙げたかもしれない。今の子ども達は何が好物だろうか。お寿司や焼き肉、ステーキ、ハンバーグなど肉類中心で欧米型の食品が多く出るのではないかと思う。さらに冷凍食品、インスタント食品、ファーストフードも出てくるだろう。それぐらい我々の食生活は以前と大きく変わったと言える。

 では食の好みはどこで決まるのか。一つは子供の時に食べた記憶ではないだろうか。好きなものは他の食べ物よりたくさん食べられるが、いつも食べていると飽きてしまう。だから時々食べる方が価値が高まる。その考えから言えば、現代ではすき焼きは日頃食べる料理。どちらかと言えばどうしても食べたいと思わない。一方、お寿司や焼肉は毎週毎週食べる家庭はやはり少ないだろう。時間が経つ分だけおいしい記憶はより強くなり、好物となると思う。

 さらに日頃食べてなれている事もあると思う。肉類中心の食事になれば、全般的に肉が入った料理は好むだろう。特に子供の時の食はその人の味覚や好みの基準となる。香川出身の私の友人は、うどんと言えばコシのある讃岐うどん週に1度は口に通し、慣れ親しんでいる。一方、私が通うカフェの奥さんは、うどんと言えばスーパーで売っているゆでうどんを思い浮かべる。小さい頃から食べ慣れた習慣が好みを作る一つであることが伺える。その点を最初に気づいたのはマクドナルドであろう。子供用のメニューもそうだが、おもちゃなどの景品を付けて子ども達が食べ慣れてもらう工夫をしてある。それを食べた世代は大人になっても顧客であり続ける。そしてその人達が親の世代になれば子供にも食べさせるだろう。こうしてファーストフード文化を定着させることが出来るようになった。

 こうしたファーストフードの普及やインスタント食品の増加は好みの多様化だけでなく、食べる意味そのものにも変化を与えたように思う。例えば孤食。家族がバラバラなモノを食べる。好き嫌いがあるからという理由だが、それを教育するのも食事の役割ではないだろうか。食事を楽しむことができるのは、食べ物のバラエティーの豊かさもあるが、味付けや素材、さらに食べる雰囲気など総合的な要素が詰まっている。おいしいものを食べてもいずれ飽きてしまう。親しい人とその日あった事や、たわいもない事を話ながら、それぞれの家庭の味で食事を楽しむ。単に食品を食べるのではなく雰囲気まで食べるからこそ、「あの時食べた、あれはおいしかったね」といった会話ができるし、食べたときには満腹感以上に心も満たされる。残念ながらファーストフード、インスタント食品を一人で食べる食事がわびしい所はそうした点がある。私がいつものカフェでコーヒーを飲むのも、単にコーヒーがおいしいだけでなく、マスターや奥さん、常連客など色々な人と楽しい時間を過ごすからだと思う。カフェの楽しみはそれに尽きると思う。

 核家族化、少子高齢化、家庭の様子が変化している今子ども達が好きな食べ物の変化は、嗜好の変化ではなく、食事の楽しさを含んだ色々な要素も変わっていると私は思う。そうした変化は時代の変化でもあるが、食が果たしている役割(家族や仲間が楽しい時間を共有できる等)は変わらないで欲しいと思う。

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2005年12月31日 (土曜日)

神社の掃除を終えて・・・

 月の終わりの日は晦日ですが今日は年の最後の晦日なので大晦日。みなさんはどう過ごしましたか。私は自分の神社の掃除とお祈りを済ませてきました。神社といっても人家のない山の中にあるので、お賽銭は今年は5円だけありました。確か去年は1円も入ってなかった。そのぐらい人は来ません。昔地区に住んでいた人がやってくるだけでの神社です。

 日本人は宗教心がないと言われます。確かに毎週のように神社に来るわけでもないですし、クリスマスのように、他の宗教行事を祝っていますよね。でも私は宗教心がないとは言えないと思います。むしろ大部分の人には必要なくなったと言っています。ただ戦前や高度経済成長期に入るまで私にとってまだ日本人の宗教心はあったように思います。それは大多数の人は農業あるいは漁業などの自然を相手にした一次産業に従事していた要素が強いと思います。相手が自然ですから、そう上手くいきません。そのため常に自然に対する畏敬の念を持ち、作業に当たる前に祠や社に祈りを行い、収穫の喜びを表す祭りを行いました。私の祖母が話していましたが、以前はそれぞれの田んぼに供え物をしたり、果樹の木々にも輪締め(ワラで編んだ正月用の飾り)を飾っていたそうです。勿論先祖に対する祈りは家の中にある仏壇や神棚で行います。つまり先祖に対する宗教心+自然に対する宗教心で日本人の精神面が作られていたように私は感じます。 

 宗教は色々解釈があると思いますが、恐怖心や自分でどうにもならない事をどこかに求める人の心が現れているように思います。日本でも戦国時代にキリスト教に救いを求めたキリシタン大名。石川を中心とした一向宗など常に命が危ういと感じると、宗教に走る事例はあります。でもその必要性がない時代が長く続いたから、日本の宗教心は外国と異なったと思います。 しかし自然に対する畏敬の念は近代化により薄れつつあります。科学技術の進歩は収穫の効率を圧倒的に向上したことは分かると思います。品種改良が進み5月の連休にはもう新米を収穫しているぐらいです。また農業や漁業に従事されている方が減少していること、そうした要素があり自然を恐れる事は以前から比べれば少なくなってきているのではないでしょうか。

 ただ先祖心は仏壇がなくなっても墓はなくなりません。だから盆と正月は廃れません。神社や寺は人が亡くなれば呼ばれ、檀家もいますから廃らず残っていますが、檀家の高齢化や入らない人も増えていますから以前ほどの勢いはありません。こうして日本人の宗教心はなくなったよりも薄れたというように私は考えます。 

 宗教はそれぞれの価値観ですから強要はできませんし、私の神社をすすめるつもりもありません。(その地域の神様ですから進めてもムダです)みなさんが大事に思うモノを大事にする。統一した宗教心がないからできる事だと思います。そうする気持ちがあなたを幸せにする近道ではないでしょうか。「因果応報」私の好きな言葉です。良い行いは周り巡って自分に回る。この言葉を来年のテーマにしようかなって考えながらおそばを食べたいと思います。みなさんも何かテーマを考えてみて下さい。それでは良い年を。

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2005年12月30日 (金曜日)

スタート reloaded

 はじめましてNipperと申します。今日からウェブログ「reloaded」をスタートします。

 日々私が感じたこと、考えたことを再結集させる「relod」と、皆さんに発信し展開してゆく「extend」の意味を「reloaded」に込めました。あくまでも私の投稿はrelodの部分ですから皆さんの頭の中でextendへと発展させてくれれば幸いです。

 今回はコンビニについてコメントしたいと思います。コンビニを選んだ理由はさっき寄ったからです。実は1月に福島県矢祭町で開催されるフォーラムに出席するのですが、その航空券の支払いを近くのコンビニで済ませたのです。フォーラムの事も後日取り上げたいと思います。

 しかし便利ですよね。いまさら何を言っているのかと思われますが、そう言わずに。時間に拘束されず、ATMや各種支払い、小包など、コンビニで買えるものは広がるばかりです。最近では100円コンビニ、女性専用コンビニとお店の概念そのものを買える取り組みも進みつつあります。私が以前ある町で訪れたお店はお弁当屋とコンビニが同居していて、お弁当を頼んでしばらくすると出来たての暖かいお弁当を買うことができました。(待ち時間立ち読みをして過ごしました)レンジで加熱して、生野菜まで茹だっているお弁当とは大違い。早く私の町でも出来ないかと思っています。

 今日私が買ったものはお茶とおにぎり。このコンビはコンビニでも売れている商品群になります。種類も増え、それぞれ独自の取り組みをしていますよね。お茶もここまで消費量が伸びたのはコンビニのおかげ。小型のペットボトルが解禁されてからはラインナップも増えました。缶と違って持ち運びも便利だし、今の時期はホット緑茶はかかせません。おにぎりは某ファーストフード店が激安バーガーを出した時に対抗して、100円で販売していたのは記憶に新しいところ。デフレの牽引役であった双方が今では高級化路線にシフトしています。それでもあきらめきれないそのバーガー店は、業績がやっぱり伸びてないですよね。時代を見誤ると、どんな商品でも淘汰されるのが資本主義経済のルールだと改めて気づかされます。

 さて、今回私はコンビニで航空券の支払いとおにぎりとお茶を買って私は家に戻りました。ここまでのユーザー側から見たコンビニは万能ショップのイメージが強いですが、業者側から見れば情報流通産業の塊と言えます。限られたスペースの中でいかにユーザーをニーズを満たすか。そのため顧客管理・商品・流通の総合力がコンビニが他の小売りを押しのけて成長してきた力でもあります。例えば私が購入した商品はレジで時間日時・購入顧客の性別と年齢、購入品がレジで入力され本部に電送されます。そこで店舗ごと、商品ごとの売上が管理され、実績として残った商品のみ生き残ることができます。コンビニの商品サイクルが早いのはこの管理と新商品開発があるからこそ。日夜売れる商品だけ取り扱いたいコンビニ側と、新商品を売りたいメーカーとの攻防を制した商品だけが採用されているのです。だからコンビニっていつ行っても商品の新しさを感じる。つまりユーザーの発見を刺激させる仕組みが出来ているのですね。

 さらに商品はレジで顧客が買えば流通部門に連絡が入り、トラックがお店に配送する時に切らさないように補充されます。そういえば私がお店に行ったときにアルバイトの店員の方は品を棚に並べていました。こうしたサイクルは裏の情報網によって商品がとぎれないようになっています。

 さてさて私はブログを考えながらお茶とおにぎりを食べてしまいました。家を出るときには買うつもりはなかったのですが、つい買ってしまうのはみなさん同じですよね。モノが溢れすぎて常に何か足りないのではないかと思っていまう現代人。だからとりあえず寄ってしまい、とりあえず買ってしまう。現代人の満たされない心があったからこそ、常に変化し期待を持たせる商品・店舗づくりが受け入れられここまでコンビニは発展することができたとのではないでしょうか。

 その一方でコンビニによる弊害はあまり考えられていませんが私は深刻だと思います。関西では五月の節句に太巻きを食べる習慣があります。ちなみに私の住んでいる地域にはそういった風習はありません。ただ最近はコンビニのおかげで食べる人が増えています。ただ食文化の均一化は今に始まったことではないですが、単一の文化というのはあまりにも味気ないと思いませんか。色々な要素がつまって日本の社会は作られています。ちょうど幕の内弁当の様に。すべてが単一の答えしかない世の中は人としての営みや個性が感じられないですね。

 そして気になるのはあの明るさ。蛍光灯の明るさや配列もすべて計算され、目立つようになっています。最近ではコンビニ以外のお店でも利用され町中がやたら明るくなっています。ある報告ではコンビニで深夜アルバイトをする店員には不眠症などの症状を訴える人も多いとの話も聞いたことがあります。やはり明るすぎる環境で長時間いるとホルモンバランスが崩れ不眠になりやすくなります。また深夜の親子連れも最近見かけます。特に幼い時期は発達のリズムも崩れ成長にも影響することも報告されています。少し気をつけてほしいと思います。 

 どうでしたか。ちょっとコンビニを見方は変わりましたか?特段新しい事を書いたつもりはないので発見は少なかったも知れません。そういった声が多いなら、勉強してきます。

 あとコンビニの店員の方に一言。レジで私の性別と年齢をいい加減な入力はやめて下さいね。年齢については、確かにヒゲも剃らず、ビジネスルックだったから仕方ないとしても、女性の40代のボタンを押したのを見るとちょっとへこみました。いつから私はオカマになったのか?まあ一人ぐらいのデーターが間違っていてもコンビニのシステムが揺らぐことはないけどね。そうそう、あなたも店員さんにいくつぐらいに見られているか分かりますよ。レジもお金を支払うだけでなく、店員さんの手元を見るのもいいかもしれません。私みたいにへこむかもしれませんが。

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