時事

2007年3月19日 (月曜日)

デジャビュではない

 今日もニュースでは松岡農林水産大臣の光熱水費のメディアは取り上げていた。しかし、相変わらずの返答で問題は解決していない。安倍総理はそれでも問題はないとして、大臣を解任するつもりはないようだ。

こうした光景は、どこかであったような気がする。この問題が取り上げられるようになってから、ずっとそう思っていた。

今日新聞のバックナンバーを整理していたら、この疑問が解決した。ちょうど一月前の出来事だ。柳沢厚生労働大臣が、「女性は子供を産む機械」と発言して、ゴタゴタしていた時期があった。

大臣は解任されていないし、発言は撤回されず今に至っている。まるっきり今回の出来事と同じ展開になりそうだ。これはデジャビュではようだし。

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2007年3月 3日 (土曜日)

地域調査

 先日調査のために高知県で最も東に位置する東洋町に出かけていました。調査の目的は核廃棄物に全国で唯一応募した背景を探ることです。

 この町も三位一体の改革で国からの交付税が削減され、町は耐震対策に必要な投資をすることができない状況にあり、施設誘致を立候補して国から得られる交付金(年10億円)で生き延びたいとの思いが、議会の了承も得ずに町長が独断で応募した背景があります。

 私の専門は財政ですが、町民の方と話していると「財政なんかわからない」と話すら取り合りあうこともありませんでした。しかし話を聞いていると、住民の方は「静かな町の暮らしを取り戻したい」「交付税も税金、たとえ候補地から外れてお金だけもらうあり方はおかしい」「施設誘致なんかすれば、なし崩し的に誘致につながってしまう。そんな事をは避けたい」との意見を聞きました。

 町の人の思いは十分理解できます。町長はこのままでは財政が成り立たないから、立候補して交付金を得てまちづくりに活かしたい、とコメントしていますが、私は疑問に思うことがあります。

 例えばこの町は国民健康保険料の滞納が年間約5000万円あり、不足分を合わせて税金や国からの地方交付税(国から自治体に必要な経費を算定し、不足分を補充するお金)を9000万円を繰り入れてやりくりをしています。こうやって、町民の医療保険は支えられているのです。もしこの滞納がなければどうでしょうか。耐震性に問題がある橋の改良には約5000万円。滞納がなければ生活に必要な経費に回すことは可能なのです。

 そんな話をしました。すると住民の方の反応が変わりました。「財政ってそういう事か」「何も知らなかった」「情けない、滞納でそんな所に影響しているなんて」

 少しは財政の事に興味を持ってもらったようです。これから詳しく分析して、住民の方との勉強会を開いて東洋町の自律のあり方を探ってみようかと思っています。

 高知市内から約120キロ、鉄道とバスを乗り継いで3時間半。これからしばらくは通う日々になりそうです。

 

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2007年2月20日 (火曜日)

重要視されない所は

 映像作品が終わるときに決まって流される制作者や関係者の名前が流れるエンドロール。映画やテレビなどでは必ず最後に流れるものです。

 私は映画の場合、制作者に対し敬意を表する意味でエンドロールまで鑑賞し席を立ちます。自分が製作側であれば自分の名前が出ることは感慨深いモノがあるだろうな、と考えながら見るようにしています。(作品の余韻に浸りたいというのも事実ですが・・・)本来あの時間はどんな意味があるのでしょうか。作った人にとっては、全力を捧げた作品に自分の名前が刻まれる誇らしい瞬間であると思うのです。だから他のお客さんが帰る中でもあえて私はそうしています。

 しかし、最近テレビを見て思ったのはエンドロールの流れるスピードが早いことに気づきました。真面目に見ている人はあまりいないと思うので、意識してみて欲しいのです。名前を確認するのがやっとの字幕。横に流れるスピードは人間の判断能力の限界に近いものがあります。テレビの場合、映画と異なり本編の終了とエンドロールが同時並行で進むので出来るだけ邪魔にならないように、手短に終わらせたいという意図が文字のスピードから垣間見えます。

 「あるある大辞典」のねつ造事件が発覚してから約1ヶ月経ちました。テレビの製作現場は皆さんもご承知のように、テレビ局からプロダクションへの下請けで作られています。そうなるとエンドロールには下請けの会社の名前しか出ません。番組を製作している人の名前すら出ないエンドロールに、作った人は誇りを感じるでしょうか?

 あの早すぎるテレビのエンドロールを見ながら、今のテレビ製作の現場が感じられる。そんなことを考えてしまいました。

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2006年12月 7日 (木曜日)

名前だけでも宇宙旅行に

 更新せずにしばらく間が開いてしまいました。なかなかいい話題がないもので。

でもイイ話題があったのです。それは月にメッセージが送れるというもの。宇宙航空研究開発機構が打ち上げる月探査機に、自分のメッセージを載せてくれるというもの。以前火星探査機にも同じような試みをして20万人もの賛同を得たとか。自分の名前だけでも宇宙旅行をさせるのもいいかもしれません。興味のある方はどうぞ。

http://www.jaxa.jp/pr/event/selene/index_j.html

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2006年11月 7日 (火曜日)

予告から感じるモノ

 今日は竜巻という災害の報道がニュースバリューを占めていたが、もしそれがなかったら「自殺予告」の事件がトップで取り上げられていただろう。

 あの文面を見ていて感じるのは、語彙の豊かさと相反する字の拙さ。多分利き手とは逆の手で字を書いたのだろうと感じる。

 予告文章の全文を読んだが、固有名詞は一切出てこない。自殺予告という最悪の事態を読み手に想定させて、読んだ側に問題を解決せよと迫っている。私は素直に手紙の差出人にどうも同情できない。

 普通助けを求める場合、SOSを出す側は具体的な内容を示し助ける側に訴えかける。そうした悲鳴に、他人でも同じ思いを経験した人だけでなく、一般の人で率直な気持ちが綴られていれば、心に響くものである。それは、そこまで至るには精神的な苦痛が内容から想像できるからであろう。しかしあの文面からは十分にそうした思いが伝わってこない。心に訴えるモノがないように思う。伝わってくるのは他人に対する不信感ぐらいだ。

 そして盛んに自殺という最悪の状況を突きつけいる。いじめと自殺を必死に結びつけようとしている。その一方で問題の解決に自分は名乗らず、隠れている私を助けてと求めている。まるで血眼になって探している大人の姿を見ないと、私は満足しないぞと脅しているようだ。

 それは助けてもらうにしては、卑怯ではないだろうか。人を心配させて自分の存在を確かめる。あるいはそうしたことでしか自分の存在を示せない。自分の思いを素直に示せない人ではないかと私は感じてしまうのだが。

 この差出人は多分小学生のような幼稚な人間ではないと私は思う。ああいった多方面に、さらに言葉の使い方を見るとそう思う。あえて自分の姿を幼稚に見せ、姿を示さず、自殺予告という自分を人質にして、助けてと叫ぶ。心に響かない、差出人に同情できないのはそうした要素が見え隠れしているからのように思う。

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2006年10月24日 (火曜日)

外からの視線

 衛星放送で流れている世界の報道やドキュメンタリーを私はよく見る。日本では話題にならない事件、社会現象を見ることでそれぞれの国の持つ背景や現状がよく見えるのが一番の理由である。そして日本という国をどう取り上げられているかもまた興味をそそる。

 先日フランスのニュースで寿司に関する内容を取り上げていた。もう「sushi」は国際語として認知され、フランスでもお店が増えているそうだ。しかしその店主の9割は中国人で、本場の日本人が少ないという現状が伝えられていた。

世界中どこに行っても中華料理に困ることはないが、どうやらこのままだと、日本食まで彼らに取り込まれてしまうのかも知れない。こうした現状にあまりフランスの人は違和感を感じないようである。これはある意味仕方のないことかもしれない。

外国のドラマを見ていると日本人役の役者は大体が中国人であることが多い。私たちから見れば、中国人と日本人は肌の色は黄色人種で同じだが、顔の骨格などから違いが分かるが、白人の彼らから見れば中国人も日本人も同じように見える。同じく日本人から見れば、イギリス人とアメリカ人の違いを見分けられないのと同じように。

 さて話題を元に戻すが、そんな現状を変えようと日本人の寿司職人がフランス人に寿司の作り方を教える講習会を始めたそうだ。寿司好きの人が集まり盛り上がった様子が伝えられた。インタビューでは「自分も職人のように上手に握りたい」と参加者は答えていた。

ある番組では外国人のお茶の先生が紹介されていたが、これからは寿司を握る職人さんも外国の方が多くなるのかも知れない。彼らのように熱心に日本の文化に携わる外国の人はまだ少ないのかも知れないが、やがて文化教室や職人さんが外国人ばかりになり、日本人が教えてもらう側になるかもと考えてしまった。

 寿司でも茶道でも何でもいいが、日本人も一つぐらいは自分の国の文化を身につけるべきではないだろうか。

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2006年9月24日 (日曜日)

ちょっとだけだった・・・

 福岡で発生した飲酒死亡事故。以前からその危険性を指摘されながらも再び同じような事件が繰り返されている。これは日本だけに限らず、欧米でも対策がなかなか進まない問題である。

 北欧の国フィンランドでは行政が使用する公用車ではドライバーが息を吹きかけないとエンジンが始動しないシステムが採用されているとか。

 私が見てびっくりしたのはフランス政府の事故啓発のCM。日本の政府CMは少し固さが感じるが、フランス政府CMの衝撃さはずば抜けています。

「video1.wmv」をダウンロード

 まあ、ちょっと出し過ぎていたのでしょうけどね。このCMの効果もあるのかフランスではこの4年で交通死亡事故が30%も減少したとか。やはりこれぐらいしないと効果がないのかもしれません。

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2006年9月15日 (金曜日)

シップはあるかな

 事実上首相選抜選挙である自民党総裁選は、投票前からほぼ安倍氏で決まっている。そのせいだろうか、前まであれほどメディアで報道されていたのに、告示後になるとめっきりニュースの表には出なくなってしまった。選挙をする前から当選者と、だいたいの票数が読めるぐらいだから地縁血縁で票数が決まってしまう田舎の首長、議会議員選挙のようである。

 3人の候補者を見ていて思ったのは、どの人にもリーダーとしての能力はあるかもしれないが、さらにその上のシップがないように思った。

 リーダーとリーダーシップ。このふたつはトップに立つ人間として必要な要素である。しかし決定的に違うのは、リーダーはその人自身で出来ることだが、シーダーシップはそれについていく人が決めるモノだから本人ではどうすることもできないということである。

 頂点に立ったリーダーがすることは、組織を作りそこに権限と人員を配置する。総理大臣なら大臣を指名し、担当課題を与える。これはリーダー自身しか出来ないことである。この時にリーダーにビジョンがあるかないかが、頂点に立つ人としての資質を見る一つの指針である。今回の候補者は、一応美しいとか経済成長とかキーワードぐらいは持ち合わせているようだ。

 しかしその後はリーダーシップが問われることになる。そもそもリーダーは分かるがシップは何を示してるだろうか?辞書では任務や指導権、資質とある。どちらかと言えばリーダーが発揮する要素もあるが、周辺の人の印象も大事である。本人が統率力があると思っても、部下がついて行かないと統率はとれないからである。

上から命令されると部下は当然動きます。同じ仕事の内容でも人間関係で、部下はイヤイヤ仕事をする時もあれば、はりきって(あるいは割り切って)仕事をします。この差が私はシップではないかと思います。つまり上の人の人間性や能力に尊敬を持ったり、理念に共感できたりすれば、たとえ大変な仕事であっても「あの人だから、やろうか」という心境になる。これがリーダーシップの威力です。

同じような言葉でカリスマやオーラなどがありますがそれも同じような要素を持っています。本人は別にカリスマ性を発揮しているとは思っていません。周囲の人がそう思っている、あるいは思わされているのです。

今回の総裁選の候補者は総理大臣になるのですから、国民に対してリーダーシップを発揮することが求められます。果たして国民がついていきたいと思わせる総理候補でしょうか。みなさんはどう思いますか?私は残念ながら、コイズミほどシップは持ち合わせていないように思いますが。

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2006年8月25日 (金曜日)

科学も人

 太陽系から冥王星の除外のニュースを聞いて、多くの人が科学は結構あいまいな点が多いと思われたのではないだろうか。特に宇宙に関する分野は分からないことが多く、科学者でも見解が全く異なる事はよくあります。例え同じ観測データがあったとしても、その解釈は人の主観に左右されてしまうからです。

 当初、最近発見されて始めた冥王星の外側にある同じぐらいの星を惑星にして太陽系の惑星を13にという提案したのはアメリカの科学チームでした。しかしそれから冥王星が本当に惑星なのか?という長年の議論に火をつけてしまいました。

 そもそも惑星と小惑星の定義はかなり曖昧で今回ようやく決定されましたが、一応は「太陽のまわりを回り、その軌道上にある一番大きくて支配的な天体」とされています。つまり地球の近くにはそれ以上に大きな天体はありません。逆に考えると地球の周辺に同じサイズの星があれば地球は惑星ではなく小惑星になります。冥王星の外側には小さな星の帯であるカイパーベルトが存在し、そこから流星などがやってくると考えられていますので、冥王星ぐらいのサイズの星がいくつもあるのであれば、惑星にはならないというのが結論のようです。

 過去にも、火星と木星の間にあるケレスという星が発見された時、惑星と認められましたが、周りに同じサイズの星が多数見つかり降格された事があります。現在ではケレスの周辺では数千の星が発見され小惑星帯と呼ばれ、アマチュアの天文家でも星を発見している人もいます。もし今回の提案を認めてしまうと、ケレスのように、数千も星が発見されて惑星の数が膨大になってしまう。そう思った科学者も多かったはず。 

 「冥王星が惑星なら、それより多少大きい星があるなら惑星にしろ」という意見と、「この提案を認めると、これから多数の星が発見されてしまうと、すべて惑星にしなければならずそれは避けたい」という意見。星は惑星から小惑星になったからといって何が変わるわけではないのに。少し前の時代まで地球が宇宙の中心だと信じていた人が大半を占めていたのですから、謎の多い宇宙科学ではこうした事はよくあるのかもしれませんが。科学も人の思惑で動くものだなと思わされました。

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2006年8月15日 (火曜日)

終劇近づく

 ジャッキーチェーンなどの香港映画を見ているとエンドクレジットの後に漢字で「終劇」と大きく表示される。つまり「THE END」の意味である。私は今日の小泉首相の靖国参拝を見ていて、取り上げ方や周囲の反応を見ているといよいよ「終劇」が近づいている事を、役者と観客の態度が変わってきた事から感じさせられた。

 テレビによる政治家の動向が伝えられ、その一言一句をマスコミが煽られ、国民が巻き込まれる。いわゆる劇場型政治のスタイルである「小泉劇場」と呼ばれた現政権。観客(国民)に真正面に向かい自分の言葉で問題を投げかけ、何度も繰り返す。そして一定の方向が定まるとまた別の言葉で関心を別の方向に向かわせる。さらにステージ上で敵役(抵抗勢力)を名指しで批判をする。本当に彼のスタイルは演劇タイプだと思わされる。

 しかし彼のステージも主要な題目は終えてしまった。「道路公団民営化」「年金改革」「特殊法人改革」「郵政民営化」彼なりにこなしたつもりだろうが、結果は散々である。このほころびは幕が下りてから多くの人が彼を評価する時に、「あの改革は何だったのか」と思い出すのではないかと私は思う。

 人の心は移ろいやすいもので事前に予告されたイベントを終了してまうと、観客は次のステージに関心が移りがちになる。これはどうしても仕方ないことである。彼は次の総裁選には出馬しない意向を早々に打ち出したし、後継者の指名についても特にコメントしていないためなおさらだ。でもステージに立つ側から見て観客の関心がこちらに向かないことほどいやなことはない。地道に少ない観客から自分のスタイルを訴えかけ、頂点達した人であるなら謙虚に観客の関心が薄れていることを捉えるかもしれない。しかし、いきなり注目を浴びていい気になっている人ほど、関心が薄れてしまった時にでる行動は、より関心を引こうとする動きになりがちである。小泉首相の場合、アメリカ訪問でプレスリーになりきったり、あるいは外交でモンゴルなどを訪れたりし、注目を集めるような行動を行った。しかし大衆の関心はもう小泉にはない。ポスト小泉レースに注目があつまり、最近では安倍内閣の人選や、ポスト安倍の動きさえある。こうなっては首相の動向は搔き消されたも同然である。

 今回彼が注目を浴びようとして行ったのか、あるいは後任に注目が浴びているのだから行ってもいいだろうと判断したのか知らないが、常々コメントしていたが終戦記念日の今日が適切な日であると判断したから、参拝したのだろう。彼は「A級戦犯に対して祈ったのではなく、全体に対して祈った」と今回も説明にも、意味も嚙み合っていない言及に終始した。中国・韓国・東南アジアからの非難も当然あった。しかし周辺国の反応も、マスコミの反応も以前と比べてトーンが下がってしまった。これまでの参拝後の反応から見れば、靖国神社をどうするかといった内容は取り上げられるようになったが、首相の行為に対する言及は減ったように思う。

 どう足搔いても彼の関心は下がっている。だからといって度を超えたはしゃぎぶり、あるいは自分の言動の影響を考慮しない無責任なやり方が認められる訳はない。終劇の近づくこのステージの幕引きは後味が良くないように思う。

 かつて他の政治家が不祥事を起こした際、小泉首相は政治家の身の処し方は、自分自身で決めるべきと発言されたが、周囲が反対をしているにもかかわらず、自分だけの考え方に固執し、だんだん苦言を言ってくれる人までいなくなってしまっている現状こそ、最も良くないパターンに陥っていることに気づいていないのでしょうか。こうした小泉氏対する諦めの気持ちを観客が持っていることに本人は気づいていない。それが関心が薄れてしまった原因であるのに。

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2006年8月 8日 (火曜日)

田中氏が与えた影響

 今回の長野知事選では現職の田中康夫氏が、元国会議員に破れるという結果に終わった。確かに8万票は大差かもしれないが、53万票も獲得していることから決して県民は田中氏に飽き飽きしていた訳ではないようだ。

 私は田中知事には会ったことがないが、長野にも調査でたびたび訪れ知事の側近の方と色々な話しを伺ったこともある。

 以前に私が「田中知事になって一番変わったことは何ですが?」と聞くと、幹部の方は「県庁幹部には、知事は将来なれるポストだと思っていたと」返事が返ってきた。田中氏の前任者は4期(つまり20年)知事を務めた。その方は県庁出身者であり、職員とも暗黙の了解を十分理解している。だから幹部のお偉いさん方は職員の延長線上に知事がいる、と思いこんでいたという。

 しかし田中氏に変わって状況は一変する。状況を報告すると「なぜ」「どうして」といった疑問をぶつけられる。例えば「前任者の時に決まったこと」と言うと、どういう引き継ぎをしたのか、もっと具体的に聞きたい場合には前任者を呼んで報告を受けたそうだ。そうしたやりとりをする中で、いかに自分たちが役所の論理で動いているのかを思い知らされたそうだ。そして、単に業務をそつなくこなすだけではなく、自分の考えやスタンスを持つことの大事さに気づくようになった。職員からの提案も多くなり、知事も積極的に取り入れたそうだ。

 田中知事というと「脱ダム」「ガラス張りの知事室」など話題性が先行するが、理念とスタンスは持ち合わせていたようだ。例えば市町村合併が全国的に進む中で、長野県はあくまでも市町村の決定を重視し、県はサポートする姿勢に徹した。確かに方向性については二転三転したかもしれないが、最終的には地域の意志決定を尊重する姿勢をとった。

 さらに住民が地域の問題や行政の課題について(例えば市町村合併を勉強したい、あるいは自立した場合、どうやって地域を運営するのか勉強したいなど)住民が勉強会をしたい場合、専門の県庁の職員派遣する出前講座を開いたりしている。その他にも専門性のある職員を市町村から要請があると、期限付きで派遣し地域づくりの条例を作ったり、市町村でゴミや介護事業を共同スタートさせた所もある。私が聞いた中で一番印象的であったのは、ゼロ予算事業である。日曜日などの職員の方が休みの時に地域のボランティア活動に参加し、道路の清掃などに参加したそうだ。こうした取り組みは他の県ではあまり聞いたことがなく、話しを伺うと知事の考え方から職員の方が提案したケースであった。

 全国のどこの自治体でもそうだが、地域にとっての一番の産業が土木建設業であるケースはざらだ。確かに必要性のある公共事業は行うべきだが、それだけに偏るのも危険である。その点でも地域に必要で、維持補修に力を入れた長野モデルと呼ばれる方式は田中知事らしさを、職員の方が受け入れて実現したものである。理念は確かに現実から少し離れたところにあり、非現実的だと非難される事もある。しかし、そうした考え方の元実現するために努力した成果は私は評価したい。

 村井新知事は、保守派の県議や関係企業の支援を受けているだけに、田中氏の理念から良いところが後退するのではないかと危惧する。その手腕はこれからだが、今後の長野県のあり方に私は注視したいと思う。

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2006年7月 1日 (土曜日)

たばこ税の行く先

 今日から7月。たばこ税が値上げされた事はニュースでも取り上げられている。私はタバコには縁がないので特に何もないが、タバコを吸う人にとっては懐の痛いだろう。今回の値上げによって20円~30円も価格がアップされたのだから。

 タバコなどの嗜好品には高い税率が科せられている事実は周知の事だと思う。しかし私が疑問を持ったのは、今回の税率アップの理由である。財務省のホームページによると、国債発行を極力圧縮するための取組みの一環だそうだ。http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/zeisei06/html/contents/05/index.html#05a(財務省平成18年度税制改正)

 国の収支が赤字であるが為国債を発行している。その発行額を少なくするためたばこ税を値上げするのはどうだろうか。国の会計の責任は国にあり、その会計予算を承認する国会つまり議員を選ぶ国民にある。赤字の責任を公平に負担するためには全体がその負担を負うべきだと思う。例えこの増税で喫煙者が0になったとしても(絶対無理だが)、税収がなくなり、結局負担しなければならないのだから。

 確かにタバコなど社会的にも厳しくするべきと言われる分野に重点的に課税することで、消費意欲を減退させることは、一定理解する。しかしタバコには現在でも十分な課税がなされている。例えこれ以上課税したとしても、好きな人にとってタバコを吸う本数が変わるとは思わない。むしろたばこ税の収入を喫煙環境の整備や、喫煙教育などに使えば良いのではないかと私は思う。国の財政赤字の責任を喫煙者だけに押しつけるのは少しおかしいと思う。

 当然負担だけでなく、歳出の削減は必要である。現在国の収入の4割は国債発行に依存しており、政府は2010年代に歳出と歳入が等しくなる状況にしたいと説明しているが、いつも先送りされており、あてにならない。そういった意味でも本当に必要な分野への重点的な投資による歳出の削減に努めてもらいたい。

 たばこ税に始まりこれから大増税時代が始まるといわれている。国は他国と比べて日本の税負担は軽い(例えば消費税は十数%の国もあるなか、日本は5%だとか)といい税負担を求めてくるだろう。国民が税負担が重たいと感じるのは何も他国と比べてではない。税は個人や企業の財産や所得を合法的に取られていくのだから、どこか許せない所や負担感がある。それに対しての見返り、どう使われているのかが見えにくいからではないだろうか。そうした説明責任を果たさないまま、取りやすい所から課税する姿勢には問題があると私は思うのだが。

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2006年4月 6日 (木曜日)

政治家の本質

 メール問題に端を発した民主党の地殻変動は代表戦でピークに達しつつある。しかしその顔ぶれには少々人材の不足感を感じる。菅直人氏と小沢一郎氏どちらも代表を経験した人物であり、この危機感を打破するのには適任者かもしれない。ただ私は発言は少し頼りないかもしれないが、渡部恒三氏の考え方に共感できる点が多い。彼の言動を振り返りながら、政治家としての姿勢を見つめ直し、代表選に出馬する二人にない政治家の要素を挙げていきたい。

 渡部氏がそもそも国会対策委員長に就任したのは、誰も引き受け手がいない民主党の事情にあった。メール問題にて野田国対委員長が辞任。この時点で、前原執行部は、騒動の発端となった永田議員の辞職や代表である前原氏の党首交代を考えず、国会対策担当の変更で済ませようと考えていたように思われる。しかし、党首討論での前原氏の言動や情報の確認などの対応のまずさから、誰も国対委員長を引き受けようとしなかった。そこで党最高顧問である彼に声がかかるのである。

 私はまず彼が火中の栗を拾う覚悟で委員長を引き受けた事を評価したい。誰も引き受け手が現れない時に、管氏や小沢氏の名前は浮上した。しかし発言をごまかし関わらない姿勢を取っていた。もしここで引き受けようという前向きな姿勢があればこの二人の印象は変わっていただろう。双方とも政治経験も豊かで支持する人も多い。本来真の実力者は窮地の時ほど力を発揮するべきであると私は思うのだ。二人は実力はありながら、年下の代表の下にいたくない。自分がリーダーシップを取りたい。メール問題に関わりたくないといったプライドが先行したのではないかと思う。

 その点で渡部氏が国対委員長を引き受けた点は覚悟を決めて仕事に当たっていると思う。当初は発言のボケ具合が不評を買っていた。しかし、今考えてみると彼が行ったことが現実になり、それが今の民主党への視線が集まる要素になっている。例えば党首の責任を追及し、代表選を早めてトップを交代させる事。この代表選の繰り上げ実施は、発言してから訂正したがその方向に進んで正解であった。永田議員は自分から辞職する発言を最後までしなかった。それは前原氏も同様である。前原代表が辞任せざるを得ないようになってから永田氏も辞職するがそれを影で進めたのはは渡部氏である。彼は政治家の出処進退は侍と同じで、自分の行動には腹を決めてやる覚悟が必要だと繰り返し発言している。少し時代錯誤だと言われるかもしれないが、私は大事なことではないだろうか。

 何でもかんでも問題があれば責任者が交代すればいいという方向では、いくら人がいても足りない。しかし、その責任者に落ち度があり、信用に関わる問題であれば交代するべきである。その点で上に立つ人物はそのリスクに対する覚悟が必要である。今回の永田議員、前原代表の発言や行動には事件に対する責任感や自分たちの詰めの甘さを軽く見ているのではないだろうか。情報の出所や事実確認。ガセであったにも関わらず本物のようにみせかける討論。その人の資質に関わる問題だからこそ、民主党への信頼感が損なわれたのだ。その点での認識が甘いように思う。この点で渡部氏の言う覚悟がこの永田氏と前原氏には足りないと思う。

 次に渡部氏の考え方として共感出来るのは、透明に政治を見せようとする姿勢である。朝のテレビ番組に出演する姿を何度も見た。大抵民主党の議員は若手が(と言っても50代だが)出て、党の動きを推測を交えて話している。なかなか党の執行部の人がテレビに出る機会は限られている。おそらく自民党の国対委員長の細田博之(前官房長官)よりもメディアで党の主張を行い、先程の代表選前倒しや党首責任の名言など自分たちのスタンスを明確に伝えようとしている。

 メディアをいかに利用するかは現代の政治の大きなポイントだ。この点を小泉首相はそこをわきまえている。毎日首相の会見が開かれるが、毎日大統領や首相がテレビの取材に答えるのは世界でもあまり例がない。 

 渡部氏の場合、単に自分が前に出るだけではない。党の姿勢そのものも透明にしようとしている。今回の代表選は話し合いで決めようとする流れがあった。でもそれでは談合で決まったような印象を持たれかねない。渡部氏はそれを重々理解し、代表選で決着をつけるべきと最初から言っている。そして共同で会見を開いて、両者の対立軸を明確にし関心を持ってもらうように努力していた。結果的に共同会見は実現しなかった(両者とも対立軸が明確にしたくない理由があるのだろう)が、選挙で選ぶ客観性が注目度を上げる結果になったと思う。

 こうして見ると渡部恒三氏のスタンスは明解である。1つ目に自分の役割を自覚し行動する。2つ目に自分のスタンスを明確に伝える事である。前原氏や永田氏の行動から見ると議員や代表の役割を自覚しているのか疑問に思う。そして管氏や小沢氏を見ると自分のスタンスを明確にしようとしているか疑問に思う。その点で渡辺氏は最初から代表になるとは一言も発していない。自分の役割はメール問題にカタを着けて、新代表に引き継ぐこととわきまえている。そして自分のスタンスを堂々と主張している。だから分かりやすい。代表交代の前倒しや議員辞職にてケジメをつけさせ、新代表を公平に分かりやすく選出しようとしている姿が見えてくる。そこには、ここで失敗すれば民主党は立ち直れないという意識。そのリスクを自分が引き受ける度胸を持ち合わせている人であると私は思う。

 渡部氏は当選13回の大ベテランである。彼の物言いようは少し愛嬌もある。自称会津のケネディーらしい。もう若々しいイメージはないが、リベラルな点は共通しているかもしれない。つまり政治家としてのスタンスは一流である。自分の主義主張を堂々と発言し、ガタガタだった民主党を、関心の集まる党へと動かしている。どちらかと言えば経験を積んで悪賢い老獪なタイプではない。むしろ他の議員がその方向に走りがちだと思う。今まで政治家のスタンスや発言がぼけて見えていたのは、老獪に老獪に向かおうとしているからで、言語明瞭、意味不明瞭な発言が多かった。その点で代表となった人物には、渡部氏のスタンスを学び堂々と主張し、誰からも見ることが出来る党という責任感を持って行動してもらいたいと思う。

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2006年3月29日 (水曜日)

英語を学んでどうする

 小学校高学年における、英語教育必修化へというニュースが昨日報道されていたが、少し私の意見を言うなら、英語より「考え、自分の意見を作る」場を与えるべきではないかと私は思う。

 この内容はまだ正式な決定ではないが、将来的には小学校高学年から英語教育がスタートするというニュアンスである。ただ内容としては文法を教えたりするのではなく、遊びの要素を通じて関心を持ってもらう内容との事。私事で恐縮だが、ちょうど小学校高学年の頃、私のいた学校は、英語授業を試験的に導入していた。ネイティブの先生と歌や遊びを通じて興味を持つような内容だった。当時の私も英語が話せば世界中の人と話せるという淡い期待を持っていた事を覚えている。その点で英語に関心を持つ機会を用意するのは結構な事である。しかしそれよりも大事な事があるように思う。

 海外留学を経験した学生から聞くと、留学で学んだのは、1つには自分の英語力の未熟さを。二つめに自分の国に対する理解のなさを挙げる。今までに何人にも留学経験の話を聞くが、この二つは共通する。外に出て初めて英語は目的ではなく、手段だったと理解するのである。語学力の未熟さは当然だろうが、ショックを受けたのは日本のことを知っていないという事。友人に日本のニュースや文化について質問されてもきちんと答えることが出来ず、いかに自分の国を知っていないのか痛感したと話してくれた。

 国際交流のツールである語学ばかりに目が行き、日本人としてのアイデンティティが確立されていないとは、お粗末である。この過ちは小学校から英語を習っても解決するわけでもない。その点で私は小学校からの英語教育に疑問を感じる。むしろ日本の文化を学び、自分の中でどう位置づけるかを大事にするべきではないだろうか。

 日本には日本らしい点が良い点も悪い点もある。それを自覚しているか、していないかは大きな差である。日本の美学。例えば華道や茶道、武道といった道を究める事も一つの勉強になる。文化は習慣は日々の積み重ねであるから、意識はしないがその国のらしさを形作る重要な要素である。自国の文化を知ってこそ、初めて異文化を理解することができる。私は日本文化を勉強し、日本人とは何かを学び、一人一人に身につけるべきであると思う。そのために日本語の教育が先に来るべきで、日本人の考え方や文化に触れる授業があるべきであると思う。英語は基本的な所が高校卒業の段階で出来ればよい。数年で、ネイティブ並に話すのは無理である。大学で英語を専攻し、留学しても未熟さを感じるのだからいくら早く勉強しても無理である。そこまで話したいなら駅前でも留学して勉強すればいいと考える。

 小学校から英語を勉強させる意図は、英語を話せば国際交流が進み・・・といった考えが基本的な所にあると思う。それは誤解である。他にもパソコンを教えれば情報化出来るといって取り入れているが、情報のリスク(情報の信憑性の見極め、ネット決済のリスク等々)をきちんと教育し判断できなければ教える意味がない。英語も同様で単なるツールにしか過ぎない。ツールがあれば自動的に自分達もレベルアップする短絡的な考えはやめなければならない。

 では教育の本質とは何だろうか。義務教育で基礎基本を学ぶのは、社会が求める人間性の水準に引き上げる事が目的である。高校から大学は科目を追究する事だから個人の選択になる。しかしそこで手段ばかり追い求めて自分自身の中身が磨かれていないのでないだろうか。

 例えば歴史を学ぶ。年号を学ぶのは点数として評価しやすいからである。学生も点数という見えやすい結果があるから努力もできる。しかし大事なのは年号ではなく、歴史的事実がどう後世に影響を与えたかである。これは個人の考え方によって違ってくる。しかしそうした事を考えずに先に進んでしまう。ここが問題であると思う。

 勉強を通じて得た知識を、どう自分の知恵に変えていくか。知恵が蓄積され価値観など自分自身の内面が形成されていくと私は考えるが、そうした機会は今までの学校教育を通じてあまりなかったように思う。義務教育の目的は先程示したが、単に学力だけでなく、自分の考えを持ち行動できる事も含んでいる。知り、話し合い、考え、行動する。こうしたサイクルを通じて人は成長し、自分を作っていく。こうした機会が必要だと思う。

 人は知る事を、力にすることができる。別に特別な事ではない。本を読んで料理をするのも、ニュースを見てブログを書くのも同じなのだ。入ってきた刺激(情報)から自分の行動として外に出している。ここで重要なのは入ってきた刺激を、人は入力された以上の力で出力として出すことができる。本来こうした役割は学級会や道徳の授業が役割を担っていたが、最近は軽視されがちである。相手の意見を聞きながら自分の意見述べたり、仲間でルールを決めたりする事は、社会生活を営む上でとても大事な機会である。普通の授業にもこうした役割があるのである。

 例えば英会話の授業で世界の現状について興味を持ち、飢餓の子ども達の現状を知る。そして自分たちで話し合い募金活動をする。例えばであるが、こうした知識から行動に移るサイクルは学校で学び、社会人となっても必要な事である。学んだことが自分たちの考えとなり、行動につながっている機会や考えることは決してムダではない。こうしたサイクルで英会話の授業を通じて生徒に定着すればいいのだが、英語ですべての国とつながるという考えであったり、点数の評価だけのツールとしての教育は無意味である。単にノウハウを教えるだけでなく、考えて自分のものにする学習も必要だと思う。

 教育の字には、教えると育むの二文字で成り立っている。教師から生徒に教える。そして教師と生徒で育む。育む課程があってこその教育だと私は思う。

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2006年3月22日 (水曜日)

見え隠れするアメリカの偽善

 最近ニュースにも取り上げられなくなった、ブッシュ大統領。最近ではイラク情勢の行き詰まり感を見せる一方で、隣国イランの核兵器開発に圧力をかけるなど、相変わらずの強硬路線を突き進んでいます。無論支持率は低下しています。末期の政権ですから注目度が下がるのは当然でしょうが、声高にテロ撲滅と叫んでいたあの時とはあまりにも対照的なような気がします今回は私が感じるアメリカの偽善を考えてみます。

 同時多発テロを受け、アフガニスタンに軍事侵攻し、犯人であるアルカイダ幹部を取り押さえることなく、親米政権を立ち上げました。ここまではある一定の国際世論の理解は得ましたが、次にアメリカはその矛先をイラクに向けました。国連安保理で今から見ればあることないことをでっち上げ、理由をつけて口実を作ろうとしますが失敗し、結果的に単独に近い形での軍事侵攻をすることになりました。
 

 その目的はフセインを逮捕することでも、イラクに自由を与える事でもないことは誰の目にも明らかです。本当の目的は石油でした。アフガンの時と違い、アメリカの偽善が明らかに見え隠れしていたから、誰も賛成しなかったと言えます。例え自分の国の利益であれば、国際世論が何を言っても突き進む。アメリカの強さでもありますが。

 私はイラク侵攻を見て私はブッシュは熊に例えることが出来ると思いました。熊は秋になると冬眠のために栄養を蓄えようと様々な植物を食べます。その中で好物なのは蜂の密です。熊は蜂に刺されながら巣を襲い、密を食べようとします。ブッシュが熊であるなら、イラクは蜂巣であり、密は石油になります。しかし襲ってみると蜂(テロ)の猛攻を浴びたと考えています。結果的に新政府はとりあえず作ったものの、石油は取れずじまい。多大な犠牲と反米感情が残った結果となりました。

 一方アメリカ国内にもイラク情勢が大きな影を落としています。イラク戦争で志望した兵士の人数はベトナム戦争時に並ぶ勢いになり、兵士のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の増加しており、脱走する兵士も後を絶ちません。その兵士の補充のため州兵(州独自の軍隊)を代わりに派遣をしていますが、ハリケーンカトリーナの襲来の際、州兵が不足しており災害復旧に遅れが出るなどマイナス面も指摘されています。         

 昨年から今年にかけての原油高はハリケーンの襲来による精製能力の低下や、途上国の消費拡大など様々な理由を挙げられていますが、一番は生産国の不安定さに尽きます。これにはイラク情勢が深く関与しており、その影響を最も受けているのはアメリカでしょう。例えばGMが経営不振に陥ったのは、ガソリン価格の上昇の影響から、日本車や韓国車などのハイブリッド車・低燃費の自動車に需要がシフトしているからです。石油目当てで戦争を起こして、多大な犠牲を払ったにもかかわらず、石油は手には入らなかった。それだけでなく原油高で経済に悪影響を与えてしまいました。自国の利益を追求するがあまり、自国を苦しめている。本末転倒です。アメリカの偽善で首を絞めたと私は思っています。

 これは野球のWBCにも言えることでしょう。そもそもこの大会はメジャーリーグの強さを見せる目的で始まった大会です。放送権料といった収益、勝敗率やトーナメントなどの運営方法、問題になった審判など全てアメリカに有利な基準で出来ています。しかしふたを開けたらどうでしょうか。メジャーの選手は実は中南米やアジアの選手によって支えられていた事が明確です。アメリカに有利な審判などいかに不公平なシステムであったかを路程しました。普通スポーツの酷さ大会であれば、試合をする国の審判はほとんどいません。アメリカの試合でアメリカ人が審判をするから、あのような判断が出来るのです。

 アメリカは経済力、軍事力とも世界に冠たる国ですから、アメリカ中心の偽善が生じて当然です。元々世界一英語が話せる人が多い国です。そのため国際会議をしたりするにはもってこいの国です。だから日本人がいくら英語を話してもアメリカにはかないません。第二次世界大戦後世界一の経済力と軍事力をもったアメリカは自分たちが世界の中心であることを自負しています。しかし世界はアメリカだけではありません。今回のWBCを見ても分かるように、アメリカの野球を支えているのは南米やアジアの野球選手であるように、アメリカ社会は様々な国よって成り立っていることを考えるべきでしょう。しかし、アメリカ人は自分が世界の中心であることを自負していますから、グローバルスタンダードとしてアメリカ基準を世界に要求しています。それを鵜呑みにしてはいけません。

 ではどうすればいいのでしょうか。今回のWBCの試合運営を見ても分かるように、アメリカンスタンダードを追求するあまり、優勝はおろか、決勝にも残らなかった。自分中心主義のアメリカが次回もこの大会をするかどうかははっきり言って不透明です。だったら私はこんな大会はやめた方がいいと思います。 

 野球が盛んな国は中米やアジアが中心です。韓国はシーズン終了後日本と試合がしたいと言っていますから、アメリカを除いた中米とアジアでワールドシリーズをすればいいと思います。元々アメリカの選手はメジャーリーグにはそれほど多くないですし、アメリカ中心主義のルールの下で試合をしても、公平とは言い切れません。だからこの大会をすれば野球が盛んな国のほとんどをカバー出来ますから、世界大会と言っても支障はありません。

  経済だって同じ事です。国連もIMFもアメリカの偽善です。第二次世界大戦後のアメリカ中心のルールを運営する為の組織ですから、日本が国連の常任理事国にならなくても十分です。もしなったとしてもアメリカにNoと言えない国がなった所で、他の国から信頼される訳ありません。日本は国連の分担金で大きなウエイトを占めているのですから、「お金を出さないぞ」と言うだけで今でも十分な存在感があります。そもそもイラク戦争や今までの紛争で国連は十分にその機能を発揮していませんから、国連という美しいイメージを日本人はそろそろやめるべきではないでしょうか。

 経済にしろスポーツにしろ、アメリカが強大な影響力を持つ限りその偽善に振り回されるのは当然です。その場合にどうするのか。WBCは偽善を利用することで勝利を収めました。しかし、次回はまたやり方を変えてくるでしょう。スキーのジャンプが長野大会以降不振にあえいでいるのは、日本の活躍によってアジア人には不利なルールに改正されたからです。日本がこうした条件で活躍するには、ルールに対応することも大事かもしれませんが、本質を見極めて別の枠組みを作る取り組みも必要だと私は思います。

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2006年3月14日 (火曜日)

携帯はどこまで安くなるのか

 さて最近どこの携帯キャリア(docomo・au・voderfone)も盛んに値下げを繰り返し、ユーザーの囲い込みに必死である。理由は皆さんよくご存じだと思うが、今年の10月から番号ポータビリティー制が導入されるからである。従来まで携帯のキャリアを変更して契約する場合には、電話番号まで変わってしまうためにほとんど移動することはなかった。これがキャリアを変更しても番号が変わらなくなるシステムが導入される。既に携帯の先進国である韓国では、混乱もあったが導入されている。

 さらに携帯業界には10年ぶりに新参入が認められ、既存のキャリアにはない機能性の高い商品、例えばPDAタイプ、デジカメ型などが出てくると思われる。

 こうした状況で私が最も注目しているのはソフトバンクのボーダフォン買収である。ボーダフォンは日本市場での展開がいまいちであることは皆さんがよく理解していると思う。本来ノキアやサムスンなどの海外メーカーがボーダフォンの携帯として出回る事で、二つ折りだけの日本の携帯市場が変わるのではないかと私は期待していた。しかし、実際にはノキアが1種類だけ投入しただけに終わり、ソフトバンクが買収する事になる。

 この背後関係は日本と海外との携帯仕様の違いある。今過半数の携帯電話は3G(第三世代)に移行している。3G世代の携帯は、パケットやデータ通信、そしてテレビ電話と大容量の通信が可能な点が特徴である。しかしこの3Gの規格は日本の規格と海外の規格では互換性がなく、日本の携帯は海外では使用することが一部の機種を除き出来ない。つまり海外の携帯メーカーにとって、新たに日本向けに端末を開発しなければならず結果的にノキアの1機種に留まってしまった。さらに日本のメーカーは日本独自の規格によって海外での開発競争から取り残され、携帯はメーカーにとって儲からない商売になってしまった。事実、協業によってメーカーは異なるが中身のグラフィックが同じ機種が多い事に気づいた人もいると思う。最近では電車の定期機能、電子マネー、クレジット、メガピクセルカメラ、大容量アプリケーションなど機能が充実する一方で、開発費が莫大になりソフトのバグによるトラブル多発、新モデルに新鮮味に欠ける機種が多くなるなどメーカーに多大な負担となっている事例が目につく。

 ボーダフォンはその痛手を最も受けてしまい、ユーザーの減少などが続いた。最近では定額制の積極的な導入によってなんとか持ち直してきたが、それでもドコモ・auの後追いの状況は変わらない。

 今回ソフトバンクが買収したことで、私が最も期待しているのは端末よりも料金である。日本のブロードバンドはYahooJapanによって開花したと言っても良い。私が光ファイバーを当初導入しようとしていた当時、定額で1万円以上していた。しかしyahooが本格的にADSLから光を安く提供し始めた事で、ライバル達は一斉に値下げを推し進めたので、私は月2000円程度で光で常時接続できるようになった。

 通信の選択のポイントはエリア、料金、端末の魅力だろう。携帯のエリアは、田舎に行けば差が出てくるが、普段使用する環境ではほぼ差はない。端末の魅力は確かにあるが、音楽を聴いたり、アプリをすればすぐに電池は切れてしまう。実際こうした高機能をどこまで使うかは疑問がある。例えばテレビ電話を使っている人を見かけたことがあるだろうか。大多数の人が通話かメールかアプリケーションぐらいだろう。そうなれば端末の差は余り気にしなくて良い。だから一番の差は料金になると思う。

 定額制を導入してボーダフォンは持ち直す事は出来た。つまりユーザーは価格の安さを求めている。事実一時は誰もが忘れかけていたPHSは定額制を導入することで、ビジネスマンを中心に利用者が増えている。勿論安さだけを追求するあまり、通信トラブルが多発するような事はさけてもらいたい。

 ソフトバンクはこれまでyahoojapanを中心にコンテンツを充実させ、固定電話やADSLや光といったインフラにも積極的に打って出てきた。これに携帯が加わることでNTTに次ぐ通信会社となった。本格的な競争の時代を迎えて、yahooやADSLで実績のあるソフトバンクがどう出てくるか私は注目したい。 

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2006年3月 6日 (月曜日)

二十歳までの猶予期間

 高校球児の喫煙・飲酒問題で甲子園出場を辞退することになったニュースが今日は流れていた。私はタバコは吸わないし、酒もそんなに飲む方ではない。別になくても困らない人間である。だから高校の時に友人が飲酒や喫煙をしていても自分も、とは思わなかった。どうせ隠れてやらなくとも、数年で堂々と出来ることをあえてする必要性を感じなかった。

 たしかに今回の事件は法律に抵触する行為である。だから話題になるのは分かる。でもこうした問題は以前からよくニュースになったりした。未成年を居酒屋に連れ込んで謹慎になったアナウンサーとアイドルがいた事はもう忘れ去れただろうか。そうしたやり玉に挙げられるだけで本当に取り締まりをしているだろうか。

 確かに表舞台に立つ人の行為だから大きく報じられるのは理解できるが、そうした人だけが取り上げられるだけで一般の人に対してきちんと対処しているだろうかという事が疑問に思う。単に高校や警察がやればいい問題でもないし、販売店も気をつければ分かるはずである。今回はどのような形で通報したかは知らないが、店側は高校生という事を分かっていて、酒を提供していたと思う。その場合にはきちんと店も責任を取るべきである。

 例えば、家電製品などの事故には製造側の責任を求める法律がある。飲食店でも未成年かどうかは確認する義務はある。最近ではステッカーなどで「年齢確認をする」と示しているが、本当に徹底しているか疑問である。その点も注意するべきと私は思う。

 本当に取り締まるつもりや注意するつもりのない法律に縛れるのも変な話だろう。その辺も考えるべきであるが、現状ではそうした法律があるから結局はどう運用するか、運用とは言わなくとも活かすである。なぜ未成年が飲酒や喫煙が禁止されるかの根拠は、軍人として若者を徴用する時に飲酒や喫煙まみれでは弊害が多いからというのが元々の出発点である。発達に障害を与えるというのは戦後書き換えられているだけであるのだから。

 自分でその行動に責任が取れるかの年齢で考えれば、古本やビデオなどを売る場合には18歳以上だと親の許可は必要ない。子供とは自分の行動に責任を持てない。だから人権などは基本的には存在しない。半人前の存在である。だからこそ親がきちんと行動に責任を持ち、自覚させる義務がある。言わば社会という道路を仮免状態で、助手席に親を乗せて運転しているというイメージに近い。しかし人間は親との関係で成り立ってはいない。学校という集団の中で学習することもある。その場合には学校に義務がある。またそれとは別い社会との関わりもある。それぞれに義務と責任がある。会社が株主、従業員、顧客それぞれの要素から成り立つのと同じである。一方に偏ると変な方向に走ってしまう。

 ただ今回の事件を見ていると本当に学生に学習能力があるか疑問に思う。前回は部長が学生に対して体罰を加えていたから公式試合謹慎という処分になった。それによる屈辱、やり場のない気持ちを今回補導された学生は味わったはずである。その思いを後輩にさせる危険性をきちんと自覚できなかった。その点で未熟さを感じる。

 自分の行動が、自分自身はもとより他人にどう影響するのか、それを見ることが出来て初めて大人になると私は思う。だから本来はそれが理解できるまでタバコも酒もギャンブルも与えるべきではないと思う。私はそのリスクを感じるからギャンブルもしないし、タバコも必要ない。酒は相手がいる場合にしか飲まない。

 しかしその覚悟と自覚を与えるには高校生では未熟であると私は今回の事件から考えた。確かに年齢では区切る事は、子どもにとって社会の身勝手だと思われるかも知れない。しかしそれは二十歳を過ぎれば、自分でそのぐらい判断しろという事である。だからそれまでの期間は判断するまでの猶予を与えられている、という事を単にダメと指導するのではなくきちんと家庭と学校と社会が教えるべきだと私は感じるのだが。

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2006年3月 3日 (金曜日)

自然に口ずさんだ表彰台

 今どのチャンネルを見ても、どの雑誌のトップもあの人の顔が並んでいる。そう荒川静香選手である。オリンピックはもう既に終わっているが他の選手の話題は試合が終わればもうどこかに消えてしまっている。一方彼女の注目度は変わることがない。今日も駅前のキオスクには彼女の顔が雑誌の紙面を飾っていた。新聞を見ても、親族が高知にいたことなども手伝って小さな記事だが掲載されている。そういえば投稿のコーナーも彼女の挿絵があったように記憶している。

 金メダリストだからこれだけ取り上げられるのは別に結構だが、そんなに取り上げてもコメントはそんなに代わりはしない。本人は冷静に振る舞っているが、内面では「同じ事ばかり・・・」と感じていないだろうか。横並びが好きなメディアだなあと流し見をしながら思ってしまう。

 期間中に盛り上がったり、もしくはその後でトップスターにスポットライトが当たることはいいことだと思うが、きちんと選手が活躍できるステージを用意すること、そして応援することも大事だと私は思う。前にも取り上げたが、ウインタースポーツを取り巻く環境は、企業スポーツの縮小や競技団体の組織力の弱さなどもあり今回の金メダル1つの結果に終わってしまった。カーリングが注目され新たに始める人が出るなどの話題も取り上げられていたが、それは長野大会でも同じような傾向がありすぐに下火になってしまった。にわかに遊び、競技に対して関心を持つことは必要だが、選手が活躍できる環境を整えること、そして気になるスポーツがあれば話題にしてあげるべきではないかと思う。(この内容については以前に取り上げたオリンピックから見えてくるものを参照してください)

 さて、私が荒川選手を見ていて関心したシーンがあった。それは表彰式のシーンであった。日の丸が掲げれ国歌が流れるときに彼女は君が代をつぶやいていた。多分自然に出た「日本」という国家感であったと思う。

 国家感、つまり愛国心であるが、こういうと色々言われる方がいると思う。確かに先の大戦で日本はナショナリズムをかき立て甚大な被害を出した。その反省から日の丸君が代が国旗・国歌であるが表には出してこなかった。しかし国旗・国歌はその国のシンボルであり、大事に扱うべきであろう。それを堂々と表に出せない、出さない風潮に私は疑問を持つ。天皇制にしてもそうだが時代によってゆがめられた扱いをしたことを反省し、きちんと定義すれば何の問題もない。

 国を愛する気持ちというのは別に特別な気持ちではない。それは郷土愛や家族愛に近い存在である。それは優れている、劣っているという感覚ではない。自分の故郷を懐かしんだり、又は自慢したりすることはよくある。それはや文化、自然、人間性が根底にあるからだ。小さな単位は家族であり、少し幅を広げると学校や会社や地域である。さらに市町村や県、より広げて日本という国家感につながる。日本の文化には歴史的な重みや、自然など様々な要素を含んでいる。こうした独自性を愛する気持ちをどうして否定するのだろうか。

 海で隔離され、単一国家に近い環境で長い間いたからそうした日本独自の文化性を感じなかった事もあると思う。風に散る桜にもの悲しさを感じたり、雨に打たれる紫陽花、夏の祭りのにぎわい、秋の静けさ、冬の寒々しさと変化に富んだ自然とそれを受け止める感受性は日本人らしさではないだろうか。

 きっと荒川選手は海外の遠征を通じて日本人の感受性や文化の違いを味わったと思う。だからこそ自分の国を意識し、自然と国歌を口ずさんだと思う。彼女は日本の国に対して誇りを感じていたと思う。彼女の歌った国歌から私は自分の国の誇りを考えさせられたように思う。

 最近日本の文化を熱心に勉強する外国の人が増えている。例えば盆栽が欧州で流行したり、茶道や華道、武道などの日本の芸術・文化を学ぶ人は今の日本人以上に日本の美しさを知っている。その点ではダニエルカールさんは今の日本人よりも日本人らしい。やはり、そうしたものも小さい頃から勉強し、触れるべきであると思う。そうした経験から自分の国の文化に関心を持ち、誇りを持つことが出来ると思う。日本の文化は別に京都や鎌倉だけにあるわけではない。身近にある。そうした感受性を磨く訓練を日々行いたいと思う。

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2006年2月19日 (日曜日)

オリンピックから見えてくるもの

 トリノオリンピックを皆さんは見ているだろうか。私はニュースで見かけるぐらいで、たまに夜中に衛星放送での中継を見ている程度である。テレビ報道も当初は期待の競技が続いていた事もあって大々的に取り上げていたが、まったく表彰台に立つことが出来ないからムードも盛り上がらず、最近ではあまり時間をかけなくなったと思うのは私だけだろうか。

 さて私がオリンピックを見ていて思うのは、マスコミ報道にしても期待の選手についても大半は長野オリンピックの時と変わっていない事だと思う。スピードスケート、フィギアスケート、ショートトラック、スキージャンプ・・・確かに若手の選手もいるがほとんどが長野大会で脚光を浴びた選手ばかりである。確かにアスリートが努力をして8年もの間日本のウインタースポーツを牽引した事には認める。しかしこの期間野球やサッカーでどれぐらいのスターが輩出されたのだろうか。確かにフィギアのようジュニアからシニアまで女子の選手は多いと感じるが、それ以外のウインタースポーツの新しい選手は少ないのではないだろうか。もしくは不足しているのだろうか。

 どこの国でも盛んなスポーツはある。しかしそれを見ると国力も見えてくる。例えば後進国(この表記にはいつも疑問を持つ、単に日本やアメリカの後追いをしているから遅れているだけだが)が多くあるアフリカの選手が強い分野は陸上であろう。勿論身体的能力が優れている点は認める。しかし一番重要なのは道具が必要でなく、一人でできるからお金はさほどかからない。マラソンなどはその代表例である。南米ブラジルを代表するサッカーもボール一つで出来る。キューバーが強い野球。少し道具が増えるがバットとボールとグラブが必要である。でも比較的安上がりである。

 それに比べてウインタースポーツはお金が必要である。まず競技が行える施設を作ることが出来る経済力、道具代、遠征費用以外にも。だから世界でも限られた国しか冬季オリンピックには参加できない。無論寒い地域が優位であることも確かだが。

 その点で長野大会の時には自国開催だったから日本選手に優位であった。日本人だから選手に必要な施設や競技場やコースは大会の前年には完成している。そこで練習を積めばコースの癖やポイントはつかめ、慣れたコースで相手を迎え入れることができる。勿論国も強化事業で積極的に支援してきたからこそあれだけの成果に結びついた。でもその後2回の冬季オリンピックを見ていて思うのは、その優位性がなくなると弱いということである。しかし選手は変わっていないから期待する。まず前提条件が変わっていること(選手の能力、他国の選手、施設、競技ルールを含めて)をきちんと見るべきではないだろうか。それを見ずにやたらめったら期待するから今回のような落差が来ると思う。

 スポーツにはお金をかけないとできない。ウインタースポーツはなおさらである。本気で活躍したいなら選手を育成する環境からつくらなければならない。長野の栄光を取り戻したいならテレビで落胆し、酷評する前にそうするべきであると私は思う。

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2006年1月21日 (土曜日)

米国産牛肉輸入再度停止!!

 再びアメリカ産牛肉が輸入禁止となった。私のよく見ているブログでもアメリカへの恨み辛みが書かれていた。私なりに少しこの点を考え、外交・貿易についてまとめてみよう。

 1度目の輸入停止は2003年12月にアメリカでBSE(牛海綿状脳症)が初めて確認された為に行われた。

 BSEと聞くと私は牛がふらふらして歩けなく映像を思い浮かべる。牛の脳がスカスカになる病気で脳や脊髄に病原菌が蓄積する。この病原菌に関した牛(特に危険部位と呼ばれる脳や脊髄や眼球)を食べた場合には、変異型クロイツフェルトヤコブ病になる可能性がある。余りその辺には詳しくないが、2004年にアメリカで感染した人が見つかったが、BSEがイギリスで広がっていた時期に、渡航していたようでそこで感染したそうだ。脊髄はまだしも、脳は食べるのか?という疑問は日本人なら自然に出る。イギリスのカフェでは確かに牛の脳を出すお店もあるそうだ。(私は経験ないが、大学の教授で食べた人がいる)日本人は鯨を脳から肉やヒゲまで利用したが、その国で重要な食べ物は残さず食べるという文化はどこの国でも同じようである。

 話を戻すが1度目の輸入停止によって牛丼屋に行列が出来、その店は看板メニューを失って赤字になったなど、何かと影響が出たものだ。私は牛丼はあまり食べないからたいした影響は受けなかったが、国内産の牛肉まで値段が高くなった点は少し痛かったと思う。さて輸入停止になってからアメリカは、日本の検査には科学的根拠がないなど痛烈に批判。一日でも早く輸入再開されるよう圧力をかけてきた。
 どうして日本が輸入再開に慎重になったかと言えば苦い経験を味わっているからである。日本でBSE感染牛が発見したとき、牛肉に対する不振が蔓延し国・販売店・家畜農家とも痛手を受けた。無論国のずさんな管理とBSEに対する軽い認識が事態を悪化させたから、日本は全頭検査と危険部位の徹底した排除を行いようやく信頼を得るようになった。こうした経緯をふまえて輸入再開に慎重にならざる得ない日本に容赦なく圧力をかけるアメリカ。結局生後20ヶ月以前の牛の全頭検査を取りやめ、危険部位を排除した牛肉だけ輸入するという、玉虫色の結論から輸入再開となった。

 今月に入ってから再開したというのにこの始末。しかも排除するべきリスクの高い危険部位が入っているではないか、日本もなめられたモノである。再開時にアンケートでアメリカ産牛肉を食べるかというアンケートも行われて、半数が再開そのものに反対という意見が出ていた。これによってアメリカ牛不振は決定的になったのではないかと思う。

 アメリカは担当者処分を発表。しかしこんなモノで信用するわけない。こうなれば徹底的にJapan standardを貫いてほしい。

 今回の事件は、日本とアメリカの利害が対立する時どう対処するべきか、日本人、そして日本の外交にとって良い機会だと私は思う。テロ支援をいち早く賛同し、安全保障でより緊密な関係を築き、よりアメリカと日本の距離は近づきつつある。しかしそれは相互の国益を考えて選んだ結論であろう。ではその国益が対立する場合日本はどうするのか。日本人は友好親善などと聞くと無条件で反応し、相手の要望を聞こうとするから、世界から利用されている。(ODAをよこせや謝罪せよなど)友好関係はそもそも相互の懸念事項を解決した上で成り立つ。それが日本外交は友好ありきの懸念解決と捉えているようだ。だから今まで維持してきた全頭検査をアメリカに歩調を合わせた検査方法を取り、輸入再開に至ってしまった。それがこのざまである。今回はきちんと再開に関して条件を提示していた。この点で救われた。きちんと相手に条件を提示することの重要性を認識したと思う。その場で「適切な対応をします」といった内容では、結局相手に都合良い条件に丸め込まれてしまう。そもそも日本とアメリカの利害はすべて一致するわけでない。きちんと自分の考えや要求を示すこと。自分のスタンスが明らかであれば相手も交渉せざる得ない。こうした姿勢は外交では大事であると思う。

 さて国民はどうするべきであろうか。勿論政府の姿勢を見て反応するべきであるが、我々でも出来ることはある。何もデモをせよなんて事は言わない。それでは中国人と同じレベルで話にならない。簡単な事だ牛肉が入ってきても買わないことである。

 一時中国からの野菜が店頭で並んだ事があった。しかしその後残留農薬などの安全性に疑問が出て一斉に撤去された。輸入制限がなくとも、消費者が買わなければ商売にならない。これを活かすべきである。日本の消費者だって見る目はある。いいモノがあれば日本メーカーを捨ててでもi-podを買う。しかし日本仕様(例えば日本語対応など)でなければあまり買う気にはなれない。早晩Samsungが家電で日本市場でも活躍するだろう。いかに日本人に合った商品を展開するか、技術力はあるからツボさえ押さえれば制覇できる。

 コカコーラが飲まれ、マックを食べて、トヨタの自動車に乗り、携帯はノキアを使う。世界中の国で見られる光景である。グローバル化とは単に国境を越えて経済活動が活発に行われるわけでない。グローバルに展開するほどその地域のニーズを的確につかまなければならない。コーラやハンバーガーはそれぞれの国でサイズが異なり、味付けも異なる。その地域の好みのツボを押さえれば売れる。だから同じカップラーメンやお菓子のブランドでも外国に行くと「何だこの味」と思う商品に出くわすだろう。これは牛肉も同じ事が言える。日本人に本当に食べてもらいたいなら日本の検査基準に合わせ、日本人の好みにあう牛を育てればいいだけである。その辺をアメリカの農業関係の人は分かっていない。だからいつまでも牛丼屋の肉で終わって、高級和牛のような扱いはしてくれない。(テレビ番組に登場する高級牛はすべて和牛である)

 果たして今回の問題はどう発展するだろうか。私はまた玉虫色の結果に終わると思う。しかしきちんと要求はするべきだ。たとえ相手がすぐ受け入れなくてもいい、そんな配慮は必要ない。きちんと日本の主張は行うべきであり、その要求をじわじわ引き下げて妥協点を探り、相手を飲み込ませてやればいいだけだ。日本外交の健闘を祈る。

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2006年1月20日 (金曜日)

ホリエモンから見えてくるもの

 ホリエモンは今日もメディアを騒がしている。いつの間にか「ライブドアショック」という言葉も出来て、良くも悪くも今の時代にとって顔なのかもしれない。

 今回の事件は子会社が株式交換を行い、合併を行った時に株式を交換した相手が自分たちが出資した投資組合で、その投資組合が得た利益がライブドア本体に流れたという問題点と、一昨年の球団買収時の業績に虚偽の疑いがある2点が問題となっている。

 今回の事件の全容は捜査当局が明らかにしてくれるだろうが、マスコミが騒いでいる点に私は多少疑問を覚える。ニュースは捜査の流れや動きを伝えているのでそれはいいが、お昼の情報番組ではライブドアやホリエモンの錬金術のからくりを連日連夜伝えている。特に買収騒ぎでもめた放送局は元幹部や社員が出演し、暴露話を流していた。一方の局は、ライブドア幹部のメールを紹介し、いかにコンプライアンス(社会的責任)を軽視した経営をしていたか紹介している。自分たちが特ダネをいかにつかむかの競争を行っている。視聴率のかねあいもあるだろうが、テレビ局の都合が見え隠れしている。でも大元のネタはおそらく買収騒ぎが発生した時から取りだめしておいたのではないだろうかと思う。

 そもそも彼はメディアによって広く認知された人物である。多くの人は球団買収時に登場した時、堀江とはを何者だ?と思ったはずである。しかしマスコミは彼の言動を追いかけ、連日流し続けた。楽天がその後球団買収に乗り出した時には、すっかり彼は認知され、ライブドア=ITベンチャー=ホリエモンというイメージが形成されていた。だから多くの人が楽天よりもライブドアの方が近鉄から球団経営を引き継ぐべきであると考えただろう。放送局を買収する騒ぎの時は、メディア(放送局)は自分たちの事だから普段より騒いでいた用に思う。あまり国民が彼に対して反感を持ったりしなかったのは、結局は放送局の都合で報道が流れていると思ったからだ。衆議院の解散総選挙に出馬したが、それを可能としたのもメディアである。いわゆる刺客の一人として、ホリエモンが短期間であれだけの結果を出せたのも、メディアによる認知が大きく関わっている。でなければ落下傘部隊(地元出身でない候補者の事)は地道に活動しなければ票を獲得できない。

 そして今回の捜査でまたメディアは彼をクローズアップさせている。でも今回は捜査という汚点であるので、マイナスの情報ばかりが流されている。もちろん問題のある手法をとっていたので当然であるが、ここまで彼の存在大きくしていおいて落とすのか?と私は思う。そもそも彼が胡散臭い、経営手法に問題があるのではないかといった情報は球団買収時や放送局買収騒ぎの時点で多数あった。だからこそ今これほどの裏情報を流せるのだろう。放送局買収の方法も違法ではないのだが、今までの暗黙の了解のゾーンを飛び越えた手法であった。法律とは最低限の社会の常識としての領域をまとめているに過ぎない。いくら法律に抵触していないとは言え、少し問題のある行動であった点は否めない。だから現在では法律も変更されている。

 メディアの大衆迎合ぶりは今に始まったことではないが、最近行き過ぎの感が見受けられてる。違法マンションの当事者がテレビに生出演して堂々と話したり、人物を持ち上げておいて、ボロが出ると徹底して叩く。もっと多用な視点で物事を判断し、情報を提供するべきであろう。その場限りのあさはかな、情報の垂れ流しのような報道では誰もが見向きもしない媒体となるだろう。単に目の前の事象にとらわれず、自ら背後関係や根本の問題を掘り下げて検証する。自分たちの主義主張を明示する姿勢が求められると私は思う。

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