私が通う大学のある地域は比較的古い町並みが残っている。幹線道路も道幅が狭く、どちらかと言えば昔田んぼのあぜ道だった道を車道に変えた趣がある。また田んぼであった土地が学生向けの新しいマンションに変わっている。言わば新しいコミュニティーと古いコミュニティーが混在する町である。特に古い町並みを歩くと面白い発見をすることがある。今回はその辺から地域のあり方や考え方を紹介したい。
ある日東南アジアの国から来ている留学生の人と話す機会があった。その人はこの大学の近辺に住み始めて面白いモノを発見した話をしてくれた。それは高知にずっと住み続けている私にとってはあまり目新しいものではなかったので、余計に印象に残っている。それは良心市である。
「良心市?なんだそれ」と思われる人が多いと思うので紹介しよう。高知の古い町には農家などが自分たちの産品を出店する小さなボックスがある。取り扱う商品はそれぞれ異なるが、近所の農家の人が作った野菜や果物、あるいは趣味で作っているお菓子、お花など多種多彩。その最大の特徴は名前が示し、相互の良心から成り立っている所である。まず出品者は市価よりも安い商品を提供する事。例えばサツマイモの大きなものが4・5個入っていても100円。たいていの商品が100円で買える。ハウス農家の方が出品する良心市では規格外のイチゴやトマトなども1パックで100円で買えてしまう。形は不揃いだが味はおいしい。その点で良い商品を提供する出品者の良心が重要である。(ある意味、生産者の社会的責任とも言うべきか)一方消費者も良心が問われる。この良心市には管理人は存在しない。つまり無人販売所なのだ。出品者のブースにお金を入れる箱があり品物を買えばお金を入れる。購入者の良心も重要である。このネーミングの良さにはいつも感心してしまう。
その留学生の人は私の国ならあり得ない。みんな取っていってしまうだろうと話していた。確かにそれはあり得る。これは今の日本でも成り立ちにくいシステムである。最近ではお金を入れずに取っていってしまう人も多いとか。ある幹線道路沿いにある良心市では、農家の人が交代で管理を行っている。しかし圧倒的に無人の良心市が多い。ではどうしてこうした仕組みが成り立っているのか。私は古く・小さなコミュニティーが関わっていると思う。
この良心市がある地域は比較的古い町並みが残り、以前からその地域に住んでいる人が多い。出品する人も自分の畑で余ったものなどを出す。その点で小遣い稼ぎの商売である。顔なじみの人が買う地域だから、不特定多数にはアピールしない。派手な看板もないので知る人ぞ知る要素もある。ただその点で相手が信頼できるという要素は成り立ちやすい。いつも無断で取っていけば、良心市は成り立たないので購入者も困る。またそんなことをやっている人も小さなコミュニティーが成立する地域ならすぐ特定される。だから取る人も少ないという点がこのシステムを確立させている。
では私の大学で成り立つだろうか。大学は1000人単位の学生と教職員がいる。もちろん全ての学生や職員が顔と名前を知るわけない。だから良心市があったとしても、誰も見ていない・誰も関わらないという心理が働き取っていってしまう可能性は高い。お恥ずかしい話だが、私の大学にある図書館のトイレには、「備え付けてあるトイレットペーパーを取らないように」と張り紙がしてある。勿論個室で誰にも見られていないという点はあるが、性善説が通用しにくい証拠かもしれない。
この良心市の仕組みは人は元々は良い人であるという「性善説」から出来ている。一方最近の社会は「性悪説」を前提に成り立っている方向に向かいつつある。確かに見知らぬ人から危害を加えられる事件が多ければ、監視カメラを設置しようとし、犯罪者リストを公開しようとする動きがあって当然である。しかしこの性善説と性悪説は成り立つ環境が異なると私は思う。
人間は善人・悪人の両方の要素を持っている。ただそれが知人や知った人の目があるかどうかで大きく左右されると思う。例えばあなたと友人が町を歩いていて火災現場に出くわしたとしよう。建物の2階から救助を求める人が叫んでいる。周りに誰もいないなら多分、一方が電話をかけて、一方が助ける・もしくは協力する人を探すようになるだろう。多分見て見ぬふりをする人はいないと思う。しかし野次馬が現場に大量にいればどうだろう。多分自分も見物するだろう。さらにテレビで現場を見れば一つのニュースとしてチャンネルを変え、徐々に関心が薄れてしまう。規模が大きくとなる性善説は通用しにくく他人事で片づいてしまう。
一方、小さなコミュニティーなら他人からの目線は結構気になる。田舎に行くと隣近所の噂や家庭状況まで奥さん連中の餌食となりやすい。私の実家も小さな村にあるから、「○○さんの息子さんが××大学に合格した」なんて話は早い早い。事実私が大学に合格した話を両親よりも近所の人が先に知っていた。CIAやFBIもびっくりするぐらい町中にスパイやエージェントがいるようだ。(誇張しすぎですが)だから下手なことはできないという心理はどこかに働くだろう。そして人との関わりが密接だから、そこら辺を遊んでいる子供も、誰が親かも分かっている。もし子供がいたずらをしていると注意もしてくれる。ある意味それも社会教育の一環であり、そうした教育から社会のルールを学んでいる。そうした教育が希薄になるもの、性悪説が成立する社会を作る要因であるようにも思う。ある人は、田舎の社会はプライバシーがない分を保険であると考えればいいと言っていた。プライバシーがない代わりに非常時には協力してくれる考え方だ。人手が限られるから相互が協力しようとする意識は存在する。例えば私の実家でも雨が降っていたら、干していた洗濯物近所の人が取り込んでいてくれ事もあった。多分都市部では考えられないだろう。やってくれても無断で立ち入ったと怒鳴られるかもしれない。やはりそこは顔を知っているからこその強みである。
一方都市部の暮らしでは、隣近所が関わってくると、うっとうしいと感じるだろう。相互が知らないから関与しない。事実、私が住んでいるマンションでも隣は誰が住んでいるかほとんど分からない。(余談だが、私の部屋の隣の隣は後輩だから時々頼りされるのだが・・・)
これは政治にも言える。国会議員よりは知事、さらに市町村長の選挙の方が身近に感じるだろうし、投票率も上がる。勿論町の規模が小さいと関心はさらに上がる。人口が千人単位の自治体になると投票率が80%台でも低いと新聞で論じられてしまうぐらいである。
今社会が物事を人ごとや無関心になりがちだ。国家財政の破綻の危機が叫ばれる中、投票率の低下はどんどん進む。勿論政治家の汚職など政治不信もあるが、あまりにスケールが大きすぎて自分たちがピンと来ない所もあると思う。平成の大合併で約3200あった市町村は約1800まで減少し、町の規模も大きくなっている。大きくなればなるほど町の取り組み自分とは無関係であるとか、身近な出来事と感じられにくい。一方で地域間のコミュニティーが薄れて、重要と言われながら地域間の協労といった動きが弱まっている。
しかし大きな町でも、古いコミュニティーが残っている地域では、町内会や自治会が率先して地域の為の活動を行っている。これは自分たちに取って身近に感じられる範囲だからだと思う。高知市も町内会はかなりの地域で組織され、ゴミの分別を町内会が行っている。そのため30万人都市であるがゴミの回収コストが安く済むため、有料のゴミ袋は存在しない。おそらくレアなケースだろう。こうした取り組みが出来るのも小さなコミュニティーがあってこそだと思う。
小さなコミュニティーがバラ色であるとは思わないが、住民同士が協労しあう関係は、きっと大きな箱物の施設を作る町作りよりも立派な町を作ると思う。その点でいつまでも良心市が成り立つ、ぎずぎすしない、今の町の要素がこれからも残って欲しいと私は思う。
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