想うこと

2007年12月16日 (日曜日)

イメージの成分

 「今日は珍しいですね、ご自分用ですか」

レジで代金を支払う際、お店の方からこんな声をかけていただいた。

そのお店は私はちょくちょく顔を出している。小さな雑貨屋さんであるが気の利いた商品から、見た目ではなんだかよく分からない(大抵そういう商品はなるほど!!と驚く使い方や機能性に優れている)物が並んでいる。私は友人へのプレゼントや自分の部屋で使う物をそこで買ったりする。

前回訪れたときは昔お世話になっていたお店(ドッグカフェ)の3周年記念に犬のポスターを買った。そんなプレゼントを買ったりする機会も多いので、レジ先でラッピングする印象から店員さんは、今日はラベリングがないので「珍しい」と感じられたみたいである。

でも買っている回数でいえば圧倒的に自分用に使う物が多い。それはほかのお客様と同じ。一人のお客様のお買いあげと変わらない。

しかしプレゼントの場合は金額も変わってくるし、ラッピングも丁寧にしてもらう。そういった普段とは異なる特異性が印象に残ったのだと思う。

 人は流れゆく日々をあまねく記憶することはできない。だからこそ変わったこと、印象に残る出来事が強く刻まれていく。そうした印象が集まりイメージが作られる。私の場合、本人が思っているのとは異なる人物像を描かれる場合が多い。多分普段あまりしない特異な印象が大きく影響しているものだとは思うのだが・・・

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2007年2月28日 (水曜日)

そんなものかな

 後輩と会話をしていた時、「私、拉致問題や夕張問題がどうしても身近な出来事だと思えない」「なぜ、夕張問題に関心を持つのですか?」と質問されてしまった。

 最近私の師匠は夕張の財政破綻について研究しているから、私も関連する書籍を購入したり、3月には実際に現地に行くことになっている。そんな私を見ていて、ふとそんな素朴な質問をされると、こちら側が答えに困ってしまうが、

 「本来は社会問題に関心や一定興味を持っておくのが社会に生きる人間の普通ではないかな」と一応回答しておいた。

 拉致問題にしろ財政破綻にしろ色々な問題があるが、こうした事が身近に感じられないのは規模論が関係しているように私は思う。

 例えば・・・友人と町を歩いていて、火災の現場に遭遇したとする。

建物の窓から女性が「助けてくれ」と叫んでいる。もし周りに人がいなければ、あなたはどうするだろうか?普通なら、友人と手分けして行動して助けるか誰か救助を呼ぶ。

もし、現場に遭遇した時に10人ぐらいの取り巻きが出来ていたどうだろうか?多分バケツリレーとかしませんか・・・と言った具合になるだろう。

もし、周囲が黒山の人だかりになっているとだろうか。単に野次馬になってしまうか、周りが混んでいる為に、進めない事にイライラするかもしれない。

もし、火災の現場をテレビで見たらどうだろうか。多分チャンネルを変えた瞬間にその出来事は記憶の片隅にも残っていない。

 人の意識とはこんなもの。だからテレビや新聞で○○問題と取り上げられる事に関心を持てないことは普通の事だろうか。だからと言ってそれでは、困るのだが。

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2007年2月15日 (木曜日)

そっぽを向いて

 さっき見ていたテレビでちょっと思ったこと。

ある女性出演者が司会者にいじられて、収録中泣き始めた。

司会者はそれをおもしろがっていじった。

泣き始めた女性は、それから司会者にそっぽを向いた。それをまた司会者はいじった。

泣いた女性の顔は、泣く以前と異なり相当な嫌悪感に満ちた表情で、いかに普段の顔が取り繕っている顔かどうか分かるものだった。

 泣いて、すねて、相手にしない。子供と変わらない行動。そうすれば取り合ってもらえると思っているから、彼女はそうしているのだと思う。当然司会者の言動はジョーク的な要素もあって、真正面から取り合うべき事でもなかった。

でも彼女は、「すねる」ことで司会者の気を引くことでカメラを押さえていた。泣いたり、すねたりすることで取り合ってもらえる。それが通用するのは、人生でごくわずかの時間だけ。

 「若さの最大の弱点は・・・・新しい若さ」

 多分、彼女のような形で人の気持ちを自分に引きつけようとする人が、新しい若さに駆逐され、自分が気に留めてもらえないことを妬むのでしょうね。いじられたぐらい笑い飛ばせる、余裕があればそんな幼稚な感情を持つ必要性もないのでしょうが。

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2007年2月 8日 (木曜日)

暇=テレビ

テレビを見る時間が最近少ない私はちょっと感じたことがある。それはテレビとは暇が必要だということ。

 テレビを見る時間は、私の場合だと朝起きて頭がボーっとしている1時間ぐらい、あと家に帰ってきて寝るまでの2時間ぐらい。何かをしながらテレビを見たりも出来るけど、普通はなにもしないで、テレビを見てくつろぐ。だからテレビを見ている時間はどうでもいい、暇な時間といえます。

 テレビを見る時間をそう捉えてしまうと、テレビが流している情報とはかなりどうでもいい内容だなと思ってしまう。
 例えば

 >アニータが日本に来て、マスコミが彼女を取り囲みその動向を追う。
 >東知事がトイレの流す音を報道したり(本人談・・・宮崎の会議でそう話していました)
 >ハンカチ王子が監督にハンカチで汗を拭く余裕を持てと怒られた。

 ホント、どうでもいい事ばかり。どれも私の暮らしに直結しない事ばかりです。
最近は放送している内容をねつ造する事件があったり、イギリスでは皇太子妃の彼女をパパラッチがマークして、問題を起こしたとか。

 報道している側は、視聴率が気になって番組を作るから、暇な人に受けそうな話題に偏ってしまう。だから、内容はどうでもいいことばかり焦点が当てられている気がしてならない。

 確かに失言をすることは問題だけど、そればかり話題が集中するのはどうだろうか?人の揚げ足ばかり取るのは、やはり暇だからだろうか。

 それとも暇な人向けの内容に過大な期待をしない方がいいのかもしれない。

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2006年12月24日 (日曜日)

賢人の忠告

 昨日のニュースである企業が投資ファンドに売却されると報道されていた。何処の会社とはあえて言わないが、犬が蓄音機を聞いている有名なマークの会社である。去年私はその会社の採用試験を受け合格していた。しかしある人の忠告を聞き辞退したのであった。

 ある方とは、その会社の理事をなさっている方である。実は一昨年幕張で行われたCEATEC(ITの見本市)でその会社のブースにいて、就職を控えた私がその会社の事や製品、仕事についてつっこんだ質問をして知り合った人である。

 その方は飾り気はなく、朴訥な口調であるが発する言葉には重みや深みがあり、本当の大人の人間だと感じた。その方とはメールで何度かやり取りをした事があり、採用試験を受けている事を知らせた。

するとこんなメールを返してくれた。

お便りありがとうございます。
目下の就職活動、ご苦労様です。
社会という大海への乗船切符をどの船にきまるのか。どのように探すかは、とても難しく悩みますね。

できれば、大型船で、先ずは安全が保証された航海をできれば、さまざまな体験を楽しめる自前の航路を確保しているコースを選ぶのが、普通の幸せを確保できて無難でしょう。

ご両親様の希望もおそらくや、同じだと思います。

○○メーカーの大航海は、すでに幾たびも折り返しが終わっております。

これからは、情報家電テーマの宝探しに乗り出でる航海で、波浪の海原を高速で突っ切る次代です。韓国、中国の追い上げも迫っております。

かつて得意とした経済重視の大型タンカーの受注が、後ろから来た国々に、奪われた事を振り返りますと、全体的なパワーの総量や経済性の相対性よりも、追従を許さない上質な強さを経営理念として、持っていること、できれば体現している姿勢が大切だと思います。

そのような感触や嗅覚の体得は○○(私の名前)さんが、これから、ご自分で、切り開く人生のテーマです。

豊かさの感じかたは、人それぞれです。できれば、振幅の広い観方のできる器を目指してください

 この返事を呼んで改めてその会社を見つめると少し不安を持つようになった。そのため私は試験に合格していたものの辞退をした。もしこのメールをもらわらなったら迷わず内定承諾していただろう。

今は別の会社の内定を受け、刺激的な内定者に出会うことができた。もしこ今の会社にしようと思わなければどうだっただろう。今の状況を考えると想像もできない。

 私にメールをくれて人は、投資ファンドへの売却話が巻き上がっている今の現状をどう思っているのだろうか。きっと私にこんなメールをくれるのだから、既に危ういことは承知していたと思う。そうした現状をきちんと知らせてくれた『大人』の人物だから、スマートな回答を持って行動していることだろう。私が尊敬した人物であるから。

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2006年11月27日 (月曜日)

まだ見えてはいない

 論文の関係もあって、今追加のヒアリング調査を進めている。たまには大学の外に出て話を聞くのも気分転換になってもいいし、実際のフィールドと理論(この場合本に書いてある事だけでなく、政府が言っていることも含めて)とのギャップを肌で感じるにもいい機会である。

 今回は市町村合併し、合併した旧村の関係者に話を伺った。特に印象的であったのは村長で現在は市会議員をされている方の一言。

 「今、腐った夕張メロンが県内でもゴロゴロしているね」

 どこの自治体も財政が厳しい。特に中山間地では払ってもらう税金は少ないが、一方で高齢者の為の福祉やインフラ整備の必要性から出費はかさんでしまう。

 夕張市は年間の税収は約9億7千万円だが、隠れ借金が292億円という膨大な債務を抱えて倒産した。仕組みとして、収入よりも支出が多いから銀行などから借り入れを行い帳尻を合わせる。でも借りたお金は来年以後の支出となる。そのため収入と支出のギャップはさらに大きくなってしまう。

 結果的にそれを繰り返して債務が膨れてしまったのだが、ぎりぎりまで市民には見えない。企業の倒産と同じだ。

 危うい地域はいくつか知っているが、いつ表面化するのだろう。先行きが心配になってきました。

 色々な投資やサービスを自治体は行っているが、その状況を知らずにいると最後に痛い思いをするのは誰でもない、自治体の代表や議員を選んでいる住民。無関心は一番危ういという事を痛感しました。

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2006年11月20日 (月曜日)

誰でも語るが

 先日、他学部の同回生のメンバーと久々に話し合う機会があった。一人は国際系の学科で記者に内定している。一人は教育系の学科で岡山県の高校の教員として採用が決定している。この二人とは以前同じ講義を受講し、時々会う仲間だ。

 話題になるのは内定後の話だが、どちらかと言えば教育問題に向いてしまった。教員に内定している友人の話す内容はとても興味深い物があった。

 彼は生徒と教師の関係を自動車学校に例えて、「生徒の方向性は生徒がハンドルとアクセルを握るべきである」といった。そこで私は「教員や保護者は助手席に乗って地図を見ながら方向性についてアドバイスをするべきなのか?」というと、「それもあるけど、間違った方向性に走った場合ブレーキは、助手席側にもあるはずだ」と答えた。

 ブレーキは確かにドライバーになる生徒も持つが、助手席側の保護者や教員もブレーキがある筈である。最近はそうした生徒と教員や保護者との関係がぐちゃぐちゃになってきているように思う。そういった意味で、両者の関係性を上手く表現する例えだと思う。

 教育の問題は誰でも語ることができるし、現にテレビを見ても語っている。そうした状況が続いているのに変わっていないように思えるのはなぜだろうか。

教育が人であり続ける限り、永久につきまとう問題なのかもしれない。

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2006年11月 6日 (月曜日)

一番効き目があるのは?

 最近気に入っている本をblogでも紹介しているが、特に気に入ったのが、早坂隆氏の「世界の日本人ジョーク集である。その中からお気に入りのジョークというか皮肉を紹介したい。

 各国の政治家が集まって「どうやったら日本を怒らせることができるのか」について話し合った。

 中国の政治家が言った。「我が国は潜水艦で日本の領海を侵犯した。それでも日本は潜水艦を攻撃してこなかった」

 韓国の政治家が言った。「我が国は竹島を占領した。それでも日本は攻撃してこない」

 ロシアの政治家が言った。「我が国はもう長きにわたって北方の島々を占拠している。それでも日本は攻撃してこない」

 それらの話を黙って聞いていた北朝鮮の政治家が、笑いながら言った。「そんなこと簡単ですよ。我々が核兵器を日本に使いましょう。そうすれば、さすがに日本も怒るでしょう」

 するとアメリカの政治家が首を横に振りながらこう言った。「駄目だね。それ、もうやったもの」

 ある意味世界からなめられている日本。でも核兵器を使っても怒らないと思われているぐらいなら、最近くすぐっている核保有論は無意味ではないだろうか。私はそう思うのだが。

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2006年10月10日 (火曜日)

CEATECレポ2

 今回は情報通信の博覧会であるCEATECレポから、実用的な展示を紹介します。

 最近は駅前など人通りの多い所でフリーペーパーが配られたり、携帯や雑誌でクーポンを使うなど企業やお店の広告ツールは以前と比べて色々な手段が増えています。またプロモーションの仕方も、単に駅や地下街に広告を張り出すだけでなく、薄型テレビを使いビジュアル面で訴える広告手法も増えています。そういった広告とプロモーションのツールの双方を取り込んだ仕組みが富士通に展示されていた「UBWALL」です。

Cimg2239

このシステムは大型のタッチパネルと人を感知するセンサー、そしておサイフ携帯のFeliCaシステムで出来ています。

通常はお店や設置場所の映像広告やガイド画面などを表示します。そして人が近づくと、様々なコンテンツをメニュー形式で表示し、フロアーの位地や新商品など、知りたい情報を画面に触れて得ることが出来るようになっています。

 Cimg2240    

そして、そのお店のお得情報や割引クーポンを下にあるFeliCaシステムに携帯をかざすことで、電子クーポンを得ることが出来るようになっています。利用者は勿論お店で使うことが出来ますが、お店側もいつ・どのお客が利用したのか履歴見ることが出来るので、次の広告戦略に利用できるのが通常の広告とクーポンシステムにはない利点です。

この履歴は利用者側にもマイメニューとして残り、携帯をかざすことで自分が普段利用しているお店の情報だけを表示することも出来ます。

では、実際にどのように使うのかムービーを見て下さい。すごく簡単にできるようになっています。「CIMG2241.AVI」をダウンロード

 このシステムはまだ研究開発段階ですが、静岡県のある市役所に設置され町の情報にアクセスできるシステムとして実用試験するとか。近い将来、デパートや地下街の広告でクーポンや情報を引き出したり、フロアーで迷った際の地図表示などで利用ができるかもしれません。あると便利かなーって思いました。

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2006年10月 9日 (月曜日)

2・5・3の法則

 どの組織を見回しても、周囲から「特徴的、独創的、オリジナリティーのある人」と言われているいる人物はいる。それが単に社会性を持っていないクレイジーなやつなのか、周りから尊敬を受け、堅実な姿勢が評価されるかどちらかに分かれるが、そんな人たちには自分のオリジナリティーやこだわりがあり、それがその人らしさを作っている。

 その気持ちが前向きで、全体に新しい方向性を導こうとしている人は、グループ全体で2割ぐらいはいる。そんな人を私はイノベーターと呼んでいる。イノベーターは似たような人たちとグループを組んで取り組む事が多い。そしてどこの組織でも新しいことに挑戦しようとしている人はいる。

 ただ新しさから周りから理解されない時でも、悩みを同じイノベーター同士で共有し、互いの速度を高め合うコミュニケーション能力を持ち合わせている。だから常に前を向いて動くことが出来る。例えば学生であれば単に単位修得の授業から、問題意識を持ってボランティアやNPO活動をしたり、講義や課外活動で得た事からベンチャービジネスを立ち上げたりと意欲的に行動する。ただ時にはグループメンバーの理解度を超えた主張をして、受け入れられない(あるいはついてけない)事もある、そんな人達である。

 でも大概の人はそこまでの行動はしないと思う。たとえ自分の考えがあっても角が立つ程主張したり、気に入らない事も仕方がないといいながら受け入れる。自分よりも周囲の目を気にする。これがグループの中で5割を占める「普通の人」である。一応はまじめで、学生ならとりあえず単位を取って、仕事ならとりあえずこなす。でもそれ以上に価値を求めたり、他の人の為の行動はそれほどしない。

 自分の主張よりいい意味でも悪い意味でも、周囲に流されるから、先頭を走るグループが熱いとそれが伝わって熱くなるし、後の方で足を引っ張る人がマイナスばかり言っていると、冷めてしまう。でもこうした人は潜在的に自分の主張があるから、そこを引き出してあげる努力が必要な人である。それがグループのリーダーには必要な素質なのかもしれない。

 不満というのはどんなに良い組織でも解消されない。それを自分の力にして欠点を克服しようと努力することも出来るが、大概がマイナスのまま蓄積され「でもさ・・」という後ろ向きの気持ちに投影されてしまう。

 組織の中でも何をやっても不平不満や保守的な姿勢の人はいる。グループの中で3割はこんな「ラガート(保守主義)」がいる。この人達も強いこだわりや主張があって説得するのは難しい。メンツやプライドを高く持ち、傷つけられることを恐れる。前に向かおうとしているイノベーターと対極の存在だが、共通点は多いのである。

 そして一世代も二世代も前のイノベーターがラガートになっているケースも多い。ラガートにいる自分たちは先進性を持っていると思っていても、周囲や若い人達から、古いと言われる。あるいは若い世代のイノベーターが新しいことをやりたいと言っても、過去の経験から「それはできない」と理屈をつけて潰してしまう。同じような経験をしたから言えることかも知れないが、結果的にマイナスの答えを出してしまう。

 働き蟻もすべてが活動するのではなく、全体の2割ぐらいはさぼっている。でもメンバーが減るとさぼっているやつも働くが、やっぱりどこかで動かないのがいる。人も同じでそれぞれの比率は組織にもよるがだいたいが2・5・3の比率だと思う。あなたはこの比率どう思いますか。あてはまるでしょうか?

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2006年10月 2日 (月曜日)

天才と普通の人との違い

 先日ある大学の講演で「天才とは社会の偏差値から外れた人間である」という印象的な言葉に出会った。

 確かに偉大な天才はその時代には、あまりに進歩的過ぎて理解されない事がよくある。偏差値はおよそ社会の平均値であるから、一応クリアすると普通は安心するし、それをクリアーするために努力はしている。

 しかしその努力は周囲に合わせる為の努力である。一定のレベルが確保されるから、考えを共有でき、社会を作ることができる。そんな難しいことを言わなくとも、成績が良ければある程度は所得の高い職業につける。

 しかし天才が行う行動や努力はすべて自分のためであり、誰から言われたあるいは頼まれたものではない。自分がやりたいと思って研究し、開発している。だから突出している。

 自分の為なのか、周囲(自分以外)の為なのか天才と一般人にはそんな所が違うのではないかと思う。
 

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2006年9月19日 (火曜日)

ひとりだけ

 私のお気に入りの映画の中には考えさせられるフレーズがいくつもある。

 例えば患者と医師が病院の屋上でベンチに座りこんなやりとりをするシーンがある。

患者「(新聞を読みながら)老人の孤独死か・・・、先生孤独死って変じゃない?」

医師「変って、何が」

患者「だってさ人間死ぬときに何人に見守られても、自殺したって一人で死ぬじゃない、だからいつも孤独死じゃないの?」

医師「そっか・・・一人だよな、みんな死ぬんだから。終わりがあるから生きていける」

 老人の孤独死、私も何度もこの言葉を耳にすることがあったがこんな考えをすることはなかった。死ぬ時は一人だ。物事は結果が出るまでは、その間の甲藤や現実はあまり公にはされない。

 人が死ぬことで周りが騒ぐ。そして孤独死という言葉でかたづけられる。しかしその前に一人で生きていく淋しい日々が亡くなった人にはある。最近高齢者への生活保護費の減額された。そのため食費と通院といった出費で生きるのが精一杯の高齢者が増加し、一人誰もいない家で過ごす高齢者のドキュメンタリーを見た。話す相手さえおらず、一人部屋の中でじっと一日が過ぎるのを待つ日々はあまりにも苦痛に見えた。

 日本は先進国の中で初めて人口に占める高齢者の割合が20%を超えた。わたしが見た高齢者ばかりではないが、自己負担の増加で作業所に通えなくなった障がい者、介護プランを作ってくれる人への報酬が打ち切られたため、ヘルパーさんの派遣がされなくなった独り身の高齢者など、社会的弱者への風当たりは厳しい。

 死ぬときは一人でも、生きているときには一人だけでなく、多くの人と接し刺激を受けながら、人と関わりを持つことで自分を高めていく、そんな人間らしい生活が送れるようにするべきではないか。孤独死という言葉からそんなことを考えさせられました。

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2006年9月16日 (土曜日)

追いかけてくれるから

 昨日はリーダーシップの意味を、部下がついて行こうと思うかという内容で紹介した。これは何もリーダーだけでなく、色々な点にも言えることである。例えば国同士ならどうだろうか。

 よく先進国と後進国(あるいは発展途上国)という表現で国を比較することがある。日本ならアニメやテレビゲームといったポップカルチャーの先進国だろうか。スウェーデンなら年金や医療の先進国。アメリカは・・・世界の先進国?それぞれ色々あると思う。

 では何で日本はアニメやゲームは世界中で受け入れられただろうか。よく考えていると元々はアニメも漫画も、テレビゲームの作品は日本人が楽しむために作った作品ばかりだ。そして次々消費するから新しい作品が生まれてくる。そのおもしろさが知れ渡りアジアだけでなく、ヨーロッパやアメリカでも幅広く受け入れられている。つまり日本のアニメや漫画の作品を追い求めるから、日本が進んでいるように感じる。

 先進国とは他の国がついてきてくれるから先に進んでいるように、あるいは追いかけてくれるから、向かっている方向性に対して先に進んでいるように見えているだけである。誰もついてきてくれなければ先に進んでいるようには見えない。例えば着物は日本人しか普通は着ない。つまり誰もマネしてくれないから、日本の中だけで留まって特に先進性は感じない。

 昨日総裁選に出馬している政治家の言動に対してリーダーシップを感じないと書いたが、アジア各国が日本の国際政治の姿勢について行きたいと思えるシップも感じていない。だから日本の存在感は国際社会の中でもどこか薄い。そして日本の政治手法をまねたいと思わないからアジアの真の先進国になれない。経済では一流の国に日本はなることができた。次はもうそろそろアメリカのシップについていく、あるいはアメリカを先進国として追いかけてばかりいるのでなく、本当の先進国や国際舞台でのリーダーシップとは何か?といった視点を持つことが大事ではないだろうか。

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2006年8月30日 (水曜日)

明暗分かれる二人 続き

 今日は昨日の続き、どうして小泉首相と田中知事は共通点が多いリーダーなのに結果が変わってしまったかということでしたね。今日からご覧になった方はこちらを先に読んだ方がいいと思います。http://think-pod.cocolog-nifty.com/relodaed/2006/08/post_9cc1.html

 私が思うに小泉も次の選挙では田中氏と同じようになりかねなかった。田中知事は2001年に脱ダム宣言を行い、翌年議会の不信任案を受けるが選挙では圧勝する。この時には具体案よりも、「脱ダム」理念を有権者に訴えるという手法が成功したと言える。これは小泉首相が郵政改革が是非をとった結果に近いと思う。そして二人にとっての支持基盤は普段は政治に関心を持たない主婦や高齢者が多く、詳しい内容よりもリーダーの姿勢やイメージが支持の決め手になっている。とても共通点が多いと言えるでしょう。ではどうして二人の結末が変わってしまうのはどうしてでしょうか。

 田中知事の場合、脱ダムが争点となった選挙から4年経過したが、脱ダムの具体案を住民に納得してもらえたとは言い切れません。勿論彼の取り組んだ成果は私は地方自治を勉強している立場から一定評価できるますが、普段政治に興味や関心を持たない支持層にとっては見えにくいのも事実。またこうした人たちはどちらかと言えば自分たちで問題を解決するよりも、誰かに現状を打破してもらいたい思いが強く、地域経済の疲弊は相変わらず、新党結成などの手法に疑問を持たれ彼の支持基盤がぐらつき今回落選したという見方を私はしています。理念を訴えた側のイメージにどこまで田中県政が答えられたかあの結果につながっていると思います。

 そう考えると色々改革といいながら結果がこれからの小泉首相が来年の選挙でも前回のように通用するかは微妙になってきます。郵政改革が行われたからと言って指摘され始めている格差問題は解決しないし、靖国問題も彼が在任中は解決しない。手詰まり感は否めない。そうなると田中氏と同様にイメージと実態のズレから、支持基盤がぐらついても不思議ではない。そう考えると5月頃から次の総裁選には立候補しないと断言した小泉のしたたかさを感じさせます。(単に怖くて出られないのかも?)

 権力者の引退は一番難しい決断である。選挙で落選だとみっともないし、スキャンダルも困りもの。しかしできれば権力は手放したくはない。色々な思惑が交錯し多くの人が後味の良くない結果を生んでいる。

戦争用語に攻勢終末点という言葉がある。つまり戦いに勢いがあってもあるときから潮が引いたように変わるポイントだ。後から考えるとなぜあそこで引かなかったのだろうかと思うが、渦中の人間にとって難しいことだ。田中氏にとってまだまだいけると思っていたが、実際は違っていました。小泉氏はここが潮時だと見て総裁選には出馬しないと早々に断言した。

でも二人で決定的に違うのは結果を受けて審判が下った田中氏とこれから結果が出て審判を受ける時に小泉首相はもう首相ではないこと。ずるがしこいとも、老獪だと思わされる点でもある。

 いずれにせよ小泉劇場はもうまもなく幕切れである。田中知事と同じ道があったかもしれない小泉は自分の攻勢終末点をきちんと読んでいたという点、大衆の関心やイメージと実態とのズレをメディアを使って上手く利用している点が、ここまで大衆の心理を掴み自分の引き際に汚点を残すことなく下りることができた要因だと私は「テレビの罠 コイズミ現象を読む」の本を読みながら考えてしまいました。

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2006年8月29日 (火曜日)

明暗分かれる二人

 「終わりよければすべてよし」でもそれが一番難しいのが引き際なのかもしれない。今日書店で手に取ったのは香山リカ氏の「テレビの罠 コイズミ現象を読み解く」を読みながら二人の人物を対比しながら考えてしまった。

 この本は昨年度、小泉フィーバーとも言える衆議院選挙を有権者・識者・メディアの両面から探った内容になっている。読みながら思うのは、政治の実態と有権者のズレを上手く利用した政治家、特に小泉を支持基盤に対するマスメディアの効果的なアプローチを使っている(マスコミ側から見れば利用された)という印象を抱いた。

 小泉内閣が発足した当初支持率90%という驚異的な数値を出していた頃、支持する有権者は大多数であったが、現在は50%に落ち着いている。つまり半数近くは彼から離れてしまった事になる。あの熱狂ぶりをこの本では、何も解決していない改革の怪しさに気づき始めた知識層や識者ではなく、主な支持基盤である主婦・シルバー層にターゲットを絞り郵政改革が是が非か、刺客候補といった自民党内の内紛にメディアを誘導し、有権者が抱いている小泉のイメージと動向を一致させることで可能になったと書いている。

私も確かにその点は当たっていると思う。あの選挙では確かに郵政改革が焦点ではあったが、それまでの改革の内容については与野党含めてあまり語られなかったように思う。メディアも刺客候補対離脱候補の構図に終始し、国のあり方といった議論をする所まで展開できなかった。だから結果的に小泉劇場をリアルに伝える道具として利用されてしまった。

 そこで考えてしまったのが長野県知事であった田中康夫氏との比較である。この二人には共通点が多い。

  1. これまでのリーダーとは違った考え方、独自の考え方を持っている
  2. 支持層はこれまで政治に関心が薄かった人が多い事
  3. 対立するグループを持っている事

 など挙げればきりがない程だが、結果的に小泉大勝、田中落選と明暗が分かれてしまった。ではなぜ分かれてしまうのか。長くなるので続きは明日にします。

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2006年8月 3日 (木曜日)

色々あるけど

 久々に寄藤文平さんの「死にカタログ」を読んでみた。世界中にはどんな死後の世界を信じる人がいるか、ユニークなイラストで紹介している。仏教のように輪廻する考えかたや、死神に吸い取られるから、太陽にいったり、チョウやコウロギになったりと色々だ。勿論それぞれの考え方に宗教の影響がある。

 世界中、色々な宗教が存在する。キリスト・イスラム・ユダヤ・仏教・神道・・・からオカルトまで。そして宗教の第一歩は、他の宗教を否定して、この宗教を信じなさいとすすめる。こうすることで布教する側は成り立つ。信者が救われるか、救われないかは別にして。

 でもどの宗教でもほぼあの世もしくは死んだ先の世界が存在する。結局人はどうにもならない事、恐怖から逃れたい(天国があるのは死への恐怖を和らげるためかも?)気持ちから、何か人の力では証明できない何かを求めるのかも知れない。

 戦争が起きている国では宗教の力は絶大だ。別にそれは日本だって同じ。戦国時代には本願寺などの仏教勢力が力を伸ばし、キリスト教にすがる大名までいた。第二次世界大戦中も追いつめられると「天皇万歳」といいながら命をなげうってしまう。

 あるかないか分からない、死後の世界を信じている。人にとっていつの時代も死ぬことは恐怖であることに違いない。そして宗教は生きている間の掛け捨て保険なのかもしれない。(なぜ、掛け捨てなのかって? 本当にリターン(死後の世界か、天国)があるかは死んでみないと分からないからさ)

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2006年7月20日 (木曜日)

お休み

 今日もアクセスいただき有り難うございます。突然ですがこのブログをしばらくの間お休みさせて頂くことになりました。ただ色々書く事も楽しいですけど考えることがありすぎて・・・・書くところまで至らない日々が続いているので。

 いつ再開するか断言できませんが、必ず再開させますので今後ともよろしくお願いします。                                             Nipper

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2006年7月 9日 (日曜日)

明日が来る?

 今日、大学で防災分野の教授と話をする機会があり、ちょっと気づいたことがあった。ある意味、人の神秘かもしれないが。

 私が住んでいる四国には、150年の周期で巨大地震が発生している。もう前回の地震から60年近く経過しており、いつ発生してもおかしくない。行政は一応それを念頭に置いて対策案を考え、その教授を始めとするグループが県内で住民を対象とした講演会を開催しているが、今ひとつ浸透していない。目の前に危機があるのに、どうして行動しないのか?その理由を教授は、「無条件で明日が来るという人の思いこみ」と答えたのだ。

 「地震が将来、来るぞ」と言われても、将来は今日の延長線上にある。今日まで起きなかったことを、明日来ると言われても実感をなかなか持てない。それまでに同じような経験を、テレビや情報として知っていても、60年も現実として体験していないと分からない。という事だそうだ。

 最近私の親しい方が続いて亡くなった。つい数日前まで健康な人もいれば、長い闘病生活を経た方もいる。そんな事を考えると人の命とははかないものだと実感する。

 しかし少し考えれば、私だって明日死ぬかも知れない。しかし、今日まで生きてきたから明日も生きると思っている。地震と認識は同じだと感じた。今日まで生きてきたから、明日も生きていると。だからこそずっと先まで(せいぜい私の場合50年ぐらいだろうか)生きていると思える。今日大阪から依頼があって私は8月8日に出向く予定を承諾し、カレンダーに書き込んだ。その日は生きていることを無条件で信じている。これが信じられなくなったら鬱になるのでしょうね。  

 そういった意味で、人のメンタルバランスは絶妙だなとつくづく感じました。それがメリットとデメリットを持ち合わせていますが明日が来ることが信じられる間は、一生懸命生きていたいものです。

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2006年6月16日 (金曜日)

芸のウケル幅

 先日テレビを見ていると久しぶりに木村政雄氏を見かけました。あまり知られていないが木村氏は吉本興業に所属し、横山やすし・西川きよしのマネージャーを務め数々のトラブルを処理(プロフィールでそう出ている)、80年代以降のMANZAIブームを産み出し、今のお笑いの世界の基礎を作り上げた人物です。現在はフリープロデューサーとて活動しています。

 私は彼の著作である「笑いの経済学」を以前読んだことがあります。内容は吉本興業の歴史や、タレントのマネージメントや今後の方向性と色々。この本を出した時期に彼は吉本でも色々と新しいことを考えていましたが、残念ながら多くを実現できぬまま(創業家との対立との説もありますが)現在フリーで活動しているようです。久しぶりにこの本を読み返してみて、今回は彼の考え方として共感出来た所を紹介したいと思います。

 この頃、テレビをつければバラエティー番組でも情報番組でもお笑いのタレントが出てきます。以前なら少し野暮ったい感じがあったタレント枠も今では普通の俳優と同じレベルで扱われるようになり、東京の放送局でも、地方でも大阪弁でまくし立てる芸人が増えたと感じています。実際、売れっ子になるといくつもの番組で見かけるようになります。ただ、こうした芸人の芸を見ていて「どうしてこんな芸が受けるの」と笑いよりも疑問が残る事が最近私はよく感じるようになりました。例えばメディア側の過剰表現もあって期待が膨らみすぎて、蓋を開けると違っていたという事もあるのですが、一発芸やタレントのキャラクターがどうしても気に入らない、もしくは理解できない事が時々あるからです。この点を木村氏は著作でこう回答しています。

 私の経験から申しますと、笑いの感覚に関しては、だいたい自分の年齢のプラス・マイナス十歳ぐらいが限界なのではないかと思っています。私は五十歳(当時)を超えましたから、六十歳から四十歳ぐらいの間、タレントでいうと上は笑福亭二鶴、桂三枝、西川きよし、下はさんま、紳助ぐらいまでです。彼らに関しては感覚としても本当におしろいと思えます。
 ダウンタウンになるとちょっとわからない、ナインティナインやロンドンブーツになると、頭ではおもしろみが理解できても、肉体的な反応になるといささか鈍くなってしまうようです。
 (中略)最近はその機会も減ったのですが、若いタレントのライブに行ったときは、ステージよりもむしろ、お客さんの反応を見るようにしています。お客さんが支持するものが正しいんだと。     笑いの経済学   集英社新書より

 私の年齢はテレビに出たての若手芸人に近くなってきました。まだ外れの芸人は多くのないですが、木村氏の考え方が正しければ感覚として分からない芸人が増えてくることは仕方ないのかも知れないと思えるようになりました。

 笑いにも色々と種類があると思いますが、テレビで目立つ新人さんの芸は大抵が変で目立つタイプです。自分たちのオリジナルの芸(例えば武勇伝・・・て芸をやっている人など)や仕草で笑わす場合はすぐ飽きられてしまいます。そこから観察力を活かして「こんな人いる」と思わせるツボを刺激したり、あるいはこんな人はありえないと感じられるようなオーバーな演技をしたり、毒舌で人を切ったするタイプへと展開していくのでしょう。

 笑いとは芸人の感覚にお客が共感できなければ笑えません。そういった意味で、芸人の体験と近い経験をお客もしなければ共感できません。年配のおばさま方に人気の綾小路きみまろは私にとってはどこかおかしいの?と見れば見るほどそう思わせます。そういった意味で年齢的な幅があるのではないかと思えました。

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2006年6月11日 (日曜日)

何が何でも・・・

 ドイツワールドカップが開催され、日本戦が開催される12日には国内も大いに沸き上がることでしょう。色々な企業がワールドカップに関するイベントやセールを行ったりするのですが、どうなのかな?と思ってしまうキャンペーンを展開している所もあります。

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)のページにはワールドカップが開催されているドイツ各地と日本が予選リーグにて対戦する国の衛星写真が公開されています。http://www.eoc.jaxa.jp/topics/tp0605/index.html

 そこまでして便乗する意義とは・・・・・確かに地形は分かるのですが(^_^;)

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2006年6月 8日 (木曜日)

幸せのランキング

 朝の情報番組を見ていると、大体終わりには今日の占いをやっている。血液型だったり、十二星座であったりと様々だが、あなたは占いを信じるだろうか?私は必要性を感じないから無視している。

 まず、人の行動パターンはが4つや12ぐらいにタイプ別に分ける事自体、ナンセンスで理解しがたい。テレビで行われる占いはランキング形式で運気が良い順に発表されるが、これも冷静に考えてみれば変。幸せかどうかは、それを感じる人の状況によって変わる。これが一律でランキングできる訳でもないし、最下位の場合でもラッキーアイテムや食べ物で運気が上がる、といった具合で運気が上がるらしい。それでは最下位の次に悪い人はどうなのか?そうした疑問をいつも感じさせる。

 それでも多くの人が気になるからこそ、こうした占いが取り上げられるのだろう。誰しも未来は不確定で先が見えないからこそ、こうした話がいつの時代でも盛り上がるのは理解できるし、人のあいまいな記憶もこうした占いを助長しているのだろうと思う。

 人の記憶や認知は平常時よりも、何か特別な事があった時のことを強く印象に残るようになっている。例えば私の場合だと、周囲の人はよくあちこち出かけているとよく言われる。確かに県外に調査に出かける機会はあるが、相滅多にあるモノではない。しかし人から「よく出かけているねえ」と声をかけられるが、そんなに忙しくないのに、極端な情報(私の場合だと、毎回どこかに調査に出かけている)ばかりがクローズアップされているのだと思ってしまう。人の認識なんてこの程度のものだ。

 占いもこうした点と共通していて、占いで出ていた内容と外れていた場合よりも、当たっていた場合の記憶が強くなり占いを信じやすくなる。又人は提示された条件を先に知ると、それ以外の情報を切り捨ててしまう。これを心理学用語でスキーマと呼ぶそうだ。これが当てはまりやすいのが血液型の性格判断だ。A型はまじめで・・・といった分類はあまりにも単純で分かりやすい。確かにそうした面が当てはまるのも一定理解できるが、その人の性格が血液型だけで他人と一致するとは考えにくい。どちらかと言えばスキーマによって該当する情報だけが取り出されているように私は思う。

 どちらにしても、朝から幸せ順に格付けされるのは私にとっては不愉快。○○がラッキー、××を食べるといいことが・・なんて事に振り回されたくない。幸せかどうかはそのときには実感しにくいものだと思う。仮にその時幸せだと感じても、次に同じような事が起きても幸せとは感じないものです。どちらかと言えば後から振り返って感じたりするものではないかと思うのです。

 つまらない情報に振り回されるよりも、いつも上機嫌(単に機嫌が良いだけでなく、冷静でもいい)でいれば多少の事で自分を振り回されずにいれる方法ではないでしょうか。まあテレビの占いぐらいで、今日が明るく見えるぐらいなら、それも否定はしませんが。

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2006年4月25日 (火曜日)

町の顔

 どの町にも、その地域を代表する建物や自然など顔となる存在がある。北海道の小樽は運河沿いの倉庫であったり、福岡県柳川市の堀割などは有名です。最近大阪に出向く機会が多いが、訪れるたびに感じる大阪の顔はかに道楽や、通天閣もありますが、中之島にある日銀や公会堂だと思います。

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大阪市中央公会堂(写真をクリックで拡大)

 

 この建物は岩本栄之助という株屋をしていた人物が、大阪市に寄付した歴史があり、2002年に復元工事を終えて現在も多くの市民に利用されています。他の建物も明治から大正時代にかけて建築された歴史のある建物ばかりです。

 大阪は江戸時代には天下の台所と呼ばれ、経済の中心地でした。当時多くの藩がこの地で活動していた名残として今も残されています。

 特に公会堂や日銀が集まる中之島の光景は古い時代の大阪の名残を残しています。少し前までは物資の輸送は水上輸送が主流でした。ですから土佐藩は輸送用の水路として土佐堀を掘ったのです。(幕府からの命令だったが)中之島の近辺も筏や船が行き交っていたそうです。昭和初期にはこの近辺の川も透き通る程、水がきれいだったとは今では想像できませんが。

 ここを通りがかると水路と緑と建物のバランスが美しく、こうした光景は他の地域ではなかなか見ることが出来ない、歴史的にも価値のあると一目で分かります。そうした品格を感じさせてくれます。

 町の風景は時代によって変化します。特に日本の場合には木造建築の建築様式で地震や台風といった自然災害が多く、古い建物は残りにくい要素を強く持っています。日本の住宅はそうした背景があり、耐久性はあまり重視されず、30年程で修理が必要となり、100年も住み続けば文化財になります。事実私の実家にある旧家は江戸時代の民家であったため、村の文化財になってしまいました。

そうした要素もあり、都市の風景は常に変化し古い町並みが徐々に姿を消しています。その一方で寺院や城など歴史的な建物は、時代が移り変わっても残り続けています。

 「古い建物を残そう」といった町並み保存の運動は各地で見受けられます。最近では東京の下北沢を再開発する話が持ち上がり、住民や建築家を中心とする反対運動が展開されているのが有名です。しかし、考えてみると古い建物を残せというのは、私のように若い世代(本当に若いかは疑問?)とっては古い時代の価値観の押しつけにもなりかねません。どちらかと言えば、年配の世代が自分たちが若い時代の光景を残して欲しい(ノスタルジー)という欲求と取れます。

 建物には、単に人々の活動の拠点である性格と、町並みを作る要素を持ち合わせています。それが似たようなデザインや集合体であれば、その地域の雰囲気を作り出します。下北沢の通りや、京都の路地にはそれぞれに独特の空気感を持ち合わせています。それが町の品となり魅力になるのです。

 こうした品は時代を経ることでそこで生きる人の生活感覚として身につき、愛着がわいてきます。そして外部から来る人を引きつけるのです。私は50年あれば3世代に渡って継承され、外の人にも知れ渡り共通の価値観として人々の意識に刻まれ立派な品格へと変わっていくと考えます。

 しかし今作られている建物の寿命は50年も残っているでしょうか?個人の住宅は最近では大手の建築業者が手がける建物が増えてきました。そうした建物はそこまで残らないでしょう。一方公共の施設や企業などのビルもそこまで残っていません。そういった点で保存の運動が起こらないまま、都市には新しい建物が生まれて、取り壊されてゆくのでしょう。

 冒頭に紹介した公会堂などは一時は取り壊しの議論がありました。約40年かけて取り壊しの議論から保存へと方向を変えながら今に至っています。町の品格を市民が守ろうと運動をし、その成果として修理を経て今に残っています。新しい建物と古い建物が混在する。欧米とは異なった町づくりが日本流の都市再生のあり方をこの公会堂は示しています。

 最近東京などの都市部では再開発が進み、都市再生事業が着々と進んでいます。六本木ヒルズや汐留や品川などに新しいビルを建築し、不動産価値を高め、人を集めるといったやり方です。都市のあり方としてそうした手法も一つあるとは思いますが、建物が持つ要素として景観や町並みを大事にし、地域の品格を作っていく方向性も大事ではないかと思いました。

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2006年4月16日 (日曜日)

かすむ空、曇る環境

 最近空がすっきりしない。雲が立ちこめているわけではない。雲はないのだがモヤがかかったようだ。原因は黄砂である。今日のニュースにも取り上げていたが東京など東日本でも数年ぶりに観測されるなど、影響は広範囲に広がっている。

 元々この黄砂は中国大陸の砂漠地帯の砂が偏西風に乗り、日本にやってきたものである。単に砂やホコリであれば問題ないが、空気中の有害物質と一緒となり農作物や洗濯物に付着するなどの被害も出ている。主に3月~5月に集中してこの現象は発生する。以前は春の数日間、空が黄色がかった現象が続く程度であったが、最近では太陽がかすむ程にまでなり、発生日数、観測範囲も広がっており被害も報告されるようになった。

 黄砂現象が顕著になった原因として挙げられるのは、第1に中国の経済成長や環境変化が大きい。中国における木材需要の増加や温暖化により、内陸部における砂漠化が進行。また放牧や耕地の増加など原因はいくつか挙げられているが有効な対策は未だ行われていない。

 空が黄色くなるぐらいであれば問題はないが、中国ではその被害が深刻である。中国の首都北京では、呼吸器疾患や健康不安が広がり、農作物被害が深刻で飛行場閉鎖などの影響も出ている。 http://www.people.ne.jp/2006/04/18/jp20060418_59054.html

 こうした現象が今後も進行すれば日本でも同様の被害が発生するかも知れない。広域的な対策もスタートしているが、考えなければならないのは環境問題は地域の問題ではなく、より広い視点で考えなければならない事である。この100年で人間の人口は急激に拡大し、行動範囲も格段に広がった。その一方で、人間一人がもたらす環境負荷も増大し、一地域の汚染が広域的な被害をもたらすようになった。温暖化もしかり、黄砂もしかりである。

 日本では地域の括りが変化し、大きな括りに統合する動きが進んでいる。それは市町村合併で第一弾が行われ、その次には道州制が導入されようとしている。しかし括りが変わっても地域の問題はそれぞれ異なる。基本は地域の問題はその地域自身で解決するべきであるが、様々な地域が補完し合い解決する手段もある。特に環境問題については補完の関係が重要である。それは問題の根源が広範囲に多くの人間が関わっているからである。

 中国の黄砂の問題は第1に砂漠化が挙げられる。しかしその砂漠化の要因に急速な経済発展があり、木材需要や家畜需要の増大がある。これらは複雑に絡んでいるので分析が必要だが、中国だけでなく日本にも要因があるように思う。事実中国産の野菜や家畜はかなりの量が日本に輸入されている。私たちは野菜や家畜と言えばスーパーで売っている食材を思い浮かべるかもしれないが、中国産の食材は多くは加工されたものが多いからだ。そう考えると様々な場面で中国という国の恩恵に我々は成り立っている。

 黄砂は単なる厄介者なのだろうか。それとも我々に警鐘を鳴らしているのだろうか。かすむ空の向こうの現実に我々は目を向ける事から始めるべきだろう。

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2006年4月 1日 (土曜日)

心に響く一言

 誰にでも何度も見返したい映画がある。その人の心に響く言葉があるからだ。私はここ数日心に空虚感が広がっていた。就活もあるかもしれないが、それ以外にも何かがあるように感じていた。

 今日久々に自分のお気に入りの映画を見てそれが分かったように感じた。タイトルは「ショーシャンクの空に」だ。それほど有名な作品ではないが、アカデミー賞にもノミネートしたがその当時の話題作であった「フォレストガンプ 一期一会」がタイトルを総ナメしてしまい、ショーシャンクは無冠の名作と呼ばれることもある。

 ストーリーを簡単に紹介すると、主人公であるアンディーは銀行の専務であったが無実の罪で終身刑を言い渡される。ショーシャンク刑務所に入所し過酷な日々を送る中で、彼は自分の知識を活かし、希望も夢もない刑務所の仲間を変えていく。最後には大逆転が待っているが・・・男同士の静かな友情と、アンディーと関わる仲間の心の変化、彼らしい結末が私は気に入っている。あまり派手な作品ではないが、良い作品だと思う。

 さて私に響いた一言を紹介したいと思います。それは主人公が刑務所を去って、親友が彼のいない寂しさを語った言葉でした。

     「彼がいなくなり時々淋しい。

       アンディーはここにはいない。

         俺はそんなとき自分に言い聞かせる。

           カゴに閉じこめてはいけない鳥もいるのだと。

             羽があまりにも美しすぎる。

               それが飛び去ったとき、

                 自由になって良かったと喜ばなければならない。

                   とは言え

                     鳥が飛び去った後の世界はくすんでわびしい。

 くすんでわびしい。そうだったのか。今の私の心境はそこだ。この言葉を聞いたとき、自分の心の中にあるモヤが分かったように思う。

 先週私が尊敬し、一番理解してくれていた教授が別の大学に異動した。5日程部屋の整理を手伝っただろうか。教授の研究室だから、本や資料、記事大量の荷物だった。そのことを知ってか他の学生はほとんど手伝わなかった。しかし私にはそれを苦労だとは思わせなかった。どうしてだろうか。私はその人に対して自然に礼を尽くしたくなる。

 普通、教授と生徒の関係には自然に上下関係が生まれる。それは年齢が上になればなるほど色濃くなる。近寄りがたいと言うよりも、変な事や的はずれな事を尋ねると、厳しい視線を向けられるようなイメージだろうか。大学だから、教授と生徒と関わることが少ない。院生になればまた別だろうが。私は先生と調査やゼミで関わらせてもらうことが出来た。最初に私がその人と話した時、かじった程度の知識で話をさせてもらったが、その人は教授と生徒という関係を感じさせなかった。とても開放的で、丁寧に教えてくれたことを覚えている。

 最近はあまり会う機会がなかったが、知り合いのカフェで会ったときには、先生と専門分野な話をしたものだ。地方の大学だから専門分野の先生が少ない。院生もいないからそうした話をする機会は少ない。私は普段から疑問に思っていた事を色々聞いた。いつもの丁寧な回答で話が弾んだ。でも話している先生の顔を見ると、私同様に先生も専門分野の話を学生とする事が少ないかもしれないと感じた。

 こんな事があった。夕方私がご飯を食べていると、論文で追われている先生もご飯を食べに来た。すぐに戻らなければ間に合わないと話していた。しかしご飯を食べ、コーヒーを飲みながら話が弾んでしまった。先生は論文で色々気苦労があったのかもしれない。多少愚痴っぽいニュアンスが言葉の端々で感じられた。だから少し戻るのがイヤだったのかもしれない。気がつけば3時間ぐらい経っていただろうか。少し悪い事をしたと思ったが、先生は笑いながら戻っていったのを覚えている。

 色々な思い出はあるが、本が消えむき出しになった本棚のならぶカラの研究室を見て、ここには先生がいないことを感じさせる。鳥がいなくなった後のカゴのように。先生がいなくなった空虚感がどこかにあったのだろう。それを「ショーシャンクの空に」が気づかせてくれた。

 事実は受け入れることしかできない。ただ自分の内でどう消化するかは時間が必要だ。「くすんでわびしい」でも、それを相手の事を考え、素直に喜ぶべきなのだと。私は作品を見終えて、心のモヤが取れたのと当時に、少しは喜べるようになった。そのことに気づかせてくれたこの作品に感謝したい。

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2006年3月27日 (月曜日)

見栄の本質

 昨日の夜、コンビニに払い込みに出かけた時にバイクの騒々しい音が響いていました。週末の夜です。どこかの若者(大学生の私が言うのも変ですが)が乗り回しているのでしょう。しかし、よく考えてみるといつの時代も若い世代が暴走行為を繰り返しています。車が登場して1世紀以上あり暴走行為は昔からはったはずです。今現在、車を運転している世代は幅広く60歳以上の人もいます。しかし、高齢者で車好きの人が存在しますが、暴走行為で逮捕された人はいません。それは当然だ。恥ずかしいあんな行為が出来るわけない。と普通は考えてこうした事を考えもしないと思います。ではどうして、若い人だけが暴走行為をするのでしょうか。今日は少し考えてみたいと思います。

 暴走行為は迷惑行為です。歩道を歩く人も、運転をしているドライバーも暴走するバイクが近くを通過すると、迷惑そうな目をしています。私は部屋の中にいても「イラ」っとして思わず「うるさい」と声に出してしまいます。車が好きな人は、どのバイクがどんな改造をしているのかを音を聞けば分かるでしょうが、それを乗り回して聞きたいとは思わないでしょう。

 それは車を若者は自己主張の手段に利用しているからです。例えば車に乗ると急に態度が大きくなり、割り込みを平気で行ったり、スピードを出す人はいませんか。これは車を通じてその人の本性が出ている証拠です。車は普段の自分では体験できない加速感を操る事ができます。また歩行者などに比べて優越感を味わうことができます。そのため普段のフラストレーションを優越感が満たしてくれる為に、人が変わったような行為が出てしまうのです。

 優越感は自分のスピードに比べて他の人が遅い場合に感じます。一方で相手に不快感を与えるのも優越感です。わざとスピードを遅くして渋滞を起こす。普段自分では人に影響力を行使することは、権限を持てない特に若い人には出来ません。しかし道路は一人のスピードが全体に影響する公共物です。一人もしくはグループで爆音を出して走行すれば自分が道路を占有している錯覚に陥ります。勿論誰かに取り合って欲しいという気持ちもあるでしょうが、私自身はこちらの方が強いように考えます。

 占有感が欲しいという気持ちが暴走行為につながっていると仮定して、では20代前半で暴走行為をしなくなるのでしょうか。

 ここに面白い公式があります 男×車=1 共立大学のある先生の投稿に載っていました。男性が自分に自信がない部分が車に投影される。だから暴走行為や改造に走ってしまう。事実本当に立派な人は自分の持っている車を自慢したり、改造したしません。中途半端な男に限って、車高を低くしたりします。

 しかし男性としての人間性が大きくなれば車に頼ることはなくなるので、暴走行為のような自分自身を強調する行為はしないという事です。確かに弱い犬ほど吠えるのと同じ所があるのかもしれません。

 外見よりも自分自身の価値観や考え方が出来るには少し時間が必要ですが、必要以上に他人にステータスや外見をアピールする必要性が無いことには比較的早くに気づきます。つまり車を磨くより自分を磨く方がよっぽどいいと気づくのです。そして自分の行っていた行為を振り返り、必要性のなさを感じ(つまり迷惑だと感じ)やめるのだと私は思います。

 誰しも人より違った事をしたいと思います。しかし実際に難しく、比較的違いを出しやすいモノに走りがちです。でもモノを持ったところで、この大量生産社会の中で違いは出しにくいのです。それよりも違いが出やすい所。自分自身を高めることに、気づいて欲しいと思います。

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2006年3月21日 (火曜日)

人の波長

 物事は科学的に説明できる分野、出来ない分野が存在する。例えばネス湖のネッシーは科学的にありえないことが証明されている。そして最近になって作り物であることは明らかになった。しかし、科学では説明できない分野があるのも事実である。それを未科学と呼ぶ。

 我々は第六感や、モノの気配を感じたりする時がある。これは現段階で科学的には証明されていない。つまり未科学の分野である。

 私は未科学の分野はさまざまなところに存在すると思う。たとえば人は解明されていない事がたくさんある。脳もしかり、感情や心理学もまだ解明されていないことが多い。私は人の波長も未科学で解明されていないが、存在するのではないかと考える。

 例えば、意見がよく合う人を「波長が合う」と言ったりする。科学的に考えれば人は原子によって構成され、原子は絶えず運動をしているのだから、波があって当然である。運動に周期があるのだから、波もあるのではないかと考える。

 しかし、人の波は一定ではなく絶えず変化をしている。たとえば長雨が降り続けば大半の人は気分が滅入ってしまう。おそらく、その日は波長のスピードは落ちているだろう。

 今日私は自己PRのセミナーを受講した。東京からもスタッフの方が参加しており、お互いの考えを言い合いながら、PRを文面を作成した。

 日々意識しない自分自身について、知り合って1時間も立たない人に評価されると新鮮な気持ちになる。灯台下暗しとでも言うべきだろうか。自分の気づかない点を新鮮な気持ちで見返すことが出来た。良い所を素直に評価しながら作成するから、自分のPRに自信が持つことができた。

 相手が素直な気持ちで自分に向き合ってくれた気持ちは、私にもよく伝わってきた。きっと今回の参加者の人のプラスのマインドは、私に伝播し、波長をより高めてくれたように思う。

 人には気持ちが前に進み、輝く時がある。通常は脳内ホルモンが分泌されて活性化されて・・・と理解する人がいるが、それもひとつの解釈である。私は人の波長の速度が、相手の速度によって高まったのだと理解する。波長は、思いという形で人に伝わり、人を動かすのではないだろうか。

 日々違った刺激を受けることは人は吸収し、成長する意欲があれば、波長はいくらでも高めることが出来る。私は常に人からよいところを学び、謙虚に自分に取り入れることによって成長していきたいと、今日のプラスのマインドを持った人と接する事で感じた。きっと私の思いも今日出会えた人にも伝わったのだろうから。そんな生き方がこれからも出来ればと思う。

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2006年3月15日 (水曜日)

自分と富士山論

 富士山論という言葉をご存じだろうか。富士山はご存じの通り、雄大、変化に富んだ姿から日本の象徴として認知されている。一時は世界遺産の登録の運動も起きたぐらいであるが、一つ大きな問題点を抱えていた。それはゴミの問題である。登山者が捨てたゴミ、し尿なども以前ではそのままふもとに流されていた。また裾野が広く為に死角が多く、自殺で有名な富士の樹海には、東京などの都市部で発生した産業廃棄物や個人のゴミが持ち込まれ、見た目の美しさとは逆に自然破壊が進んでいた。

 つまり富士山論とは遠目では美しく見えるモノも、近くで見るとアラや矛盾が見えてくる事を指している。それ言えば地球も該当するが。

 普通富士山論とは有名な人物で利用される。表面上は立派に見えているが、身近にいる人の間では評判が良くないことで使われる。しかし私は富士山論は自分自身と人の評価のギャップにも使えると思う。

 先日人とは他人を通じて、自分自身を認知しているとこのブログで書いた。それとリンクする話なので読んでいない人はぜひ読んで欲しい。

http://think-pod.cocolog-nifty.com/relodaed/2006/03/post_e60a.html

 普段人は自分の良いところにはあまり気づかない。しかし、他の人を見て憧れや尊敬を抱く一方で、自分の弱いところやダメなところなど欠点はよく目につく。これが富士山にいる人の心境と同じだと思う。富士山の頂上にいる人は、富士山の汚い所はよく目につく。そして富士山の美しさそのものよりも、眼下に見える雲やご来光の美しさに心を打たれる。

 では他人からの評価はどうか考えてみたい。他人でもマスコミや一度や二度ぐらいしか会ったことない人はその人のいい点や目につきやすい点を評価する。しかし、親友や上司や後輩など身近な人はその人の良い面と悪い面をきちんと理解している。ここも富士山論に当てはまる。一度富士山を見た人はその美しさに見とれる。しかし何度も訪れたり、近づいて見ると汚いところも見えてくると思う。

 そのそも自分と他人とは目線が異なる。自分が見下ろす富士山の形と他人が見上げる富士山とでは形が異なる。だからこそ相互の目線が必要になる。しかし他人であっても、長く近くにいると悪い点ばかり目につく。熟年夫婦が互いの悪いところばかり非難するように。

 自分の良いところに気づくと、良いところを伸ばしたいという意欲と、悪い点が意識出来る。少しナイーブになった時には他人からチェックしてもらう事をお勧めする。鬱の時にはあまりよく会わない人の方が、悪いところが見えてないからいいかもしれないが。 

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2006年3月12日 (日曜日)

地球人という感覚

 先日webで天気予報を見ようと気象庁のページにアクセスした。天気予報を見終えて気象衛星ひまわりが撮影した雲の画像を見たところ思わず感動してしまった。ぜひ、見てもらいたい。

http://www.jma.go.jp/jp/gms/smallc.html?area=6&element=1

 もし真っ暗だった場合は時間をずらしてみるといい。夜明けから浮かび上がってくる地球が見えてくる。世界初の宇宙飛行士のガガーリンの「地球は青かった」という言葉がぴったり当てはまる。勿論そんなことは分かっていることだが、ここまでまじまじと見たことはなかった。ある程度はコンピューター処理されているかもしれないが、青い海と緑の大地、繊細な雲の動き。地球の美しさにひたってしまった。

 今回はこの画像を見ながら少し考えた事を紹介したい。それはなぜ人は地球人という考え方が出来ないのかという事。
 我々自分の住んでいる地域の習慣や文化に浸りながら生活している。その地域は市町村であったり、出身県であったり、国かもしれない。しかしその地域を一歩出ると、方言や食習慣の違いを感じる。昨日まで私は大阪にいたが、大阪に来たという実感を駅のエスカレーターで感じさせる。東京に行く機会の多い私にとってエスカレーターは左側に立つ。しかし大阪では右側にみんなが立つ。こうした些細なことでも地域性を感じる。

  日本を出れば、日本の文化や人間性を新たに感じるだろう。例えばこんな面白い例えがある。タイタニック号が沈没し、救命ボートにしがみつく男性がいたとして、その人に女性や子どもに譲るように助言する場合に、イギリス人なら「それが紳士です」といい、アメリカ人なら「これで貴方もヒーローになれる」といい、イタリア人なら「女性にもてます」といい、ドイツ人なら「規則にそうあります」という。日本人なら「みんなそうしています」と言えば多分譲る。そう考えるとお国柄というのは大変面白い。

 国という地域があるが、一方でこの国という概念を変える動きもある。EUはその代表例である。なぜそうなったかと言えば、強大なアメリカの存在がある。共通する環境や文化の要素があるヨーロッパはその点でアメリカに対抗するために団結した。50年かっかったが、アメリカの存在を通じて、ヨーロッパの団結が生まれた。この動きは世界に広がり、最終的には5つ程のグループになるのではないかという専門家の意見がある。

 人は一人だけでは自分を意識することはない、自分とは違う他人の存在を通して、初めて自分を認識する。鏡で自分の姿を確認するように、他人を通して自分を知るのだと私は思う。

 大阪人の行動を見て、高知とは違うと感じる自分。アメリカ人の考え方を知って、日本人の考え方を感じる日本人。欧米の文化を知って、アジアとは違うと感じたりアジア人。こうして自分自身に気づいていく。でも地球人という存在は気がつかない。それは比較する対象がないからである。月や太陽を見ても生命体は存在しないから、いくら見ても実感がわかない。もし地球外生命体がいるなら、その生命を知って地球人という意識が芽生えるのではないかと私は思うのだが。今でも地球外生命体を求めて、電波を探したり、探査機を送ったりしているが、もし出会えば地球人という新しい感覚に人は目覚めるだろう。例えば地球人選抜と宇宙人選抜のサッカーなら、それこそ地球が一つになって応援するだろう。それまでは人類全体の事なんて考えることは出来ず、争いを繰り返すと私は思うのだが。

 ひまわりから見る地球を見ていると、そうした人の見にくい争いが小さく見える。もし地球外生命体が見てもそう感じるだろう。

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2006年3月 9日 (木曜日)

ecoとはego

 最近は企業も環境に配慮していることを盛んにアピールするなど、地球環境に対する意識は高まりつつある。よく持続的発展というキーワードも耳にするようになった。つまり、今の社会の仕組みを維持したまま、環境の負荷を考えた仕組みをつくり、次の世代まで発展できるようにすることである。たとえば自動車などの分野では環境配慮型のハイブリッドカーや燃料電池車などの開発では日本は先端を走っている。GMがあそこまで経営危機に陥っているのもひとつには、燃費の良い日本車に押されているからである。

 しかしこうしたエコロジー技術が進めば進むほどよくないという論調もある。たとえ再利用や再資源化の技術であったり、環境配慮型の商品が登場しても所詮は大量生産大量廃棄の社会モデルを続けているに過ぎない。むしろ大量廃棄社会の汚点を埋める技術として、こうした技術優位の考え方が進むことが危険だということだ。

 確かに水素を燃料とする燃料電池の技術はかなり進んでいるが、その原料は石油である。その点で従来の化石燃料依存のモデルとなんら変わらない。エコカーも、導入が進めば進むほど道路が必要となり、社会的負担が増すばかりである。本当は自動車自体を規制し、公共交通を発達させる方が持続性がある。

 どこかで量を追い求める形の社会はやめなければならない。もちろん技術でリカバリーできる点はすればいいし、進めばいいがどこか今は技術に解決策を求めすぎていないだろうか。地球温暖化防止の取り組みであるCOP3(京都議定書)では二酸化炭素の最大の排出国であるアメリカは批准していないし、現在でもある程度排出し、これから増加するインドや中国は発展途上国として扱われているので、参加しなくていい。こうした議論を見ると、どこを基準にするのか。先進国も今のスタイルを変えないと、途上国はついていけない。

 「地球に優しい」なんてよく言うが、北野武は「人間がいなくなるのが、一番地球にやさしい」と発言したことがあるが、誰もがうなずくだろう。エコロジーを進めるほど、人間のエゴが容認されていると感じるのだが。「環境配慮型」なんて流暢なことを言っている間はできないだろう。

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2006年2月24日 (金曜日)

器ですよ大学は

 学歴社会が韓国ほど幅をきかせなくなった現代でも出身大学によってその人に対する見方が変わるのは今も同じであろう。全国に大学があり、定員数と志願学生数が同じになってしまった今を「大学全入時代」と言うらしく、大学間の学生争奪競争が始まっている。すでに企業で言えば倒産した大学もあるし、短期大学などでは相次いで統廃合が進んでいる。国立大学も独立行政法人となり国直轄ではなくなった。そのためいくつかの元国立大学も消えることが既定路線となっている。いずれ私の経歴に高知大学(廃学)と書く日も近い。

 大学によっては世界に名だたる研究者が在籍し、最先端の研究を行っている所もある。大学もピンからキリまでである。だから大学ランキングが発表されると受験生やその親御さんもよく見る。しかしこの大学だから学生みんな頭がいいという訳ではない。確かに入るときには勉強して難関大学に入っただろうがその後勉強したかで大きく差が出来てしまう。しかしみんなが一流大学=頭がいいと思いこんでいる。ではどうしてそうなのか。

 確かに実績は間違いない事実だ。その次にブランドが来ているように思う。大学は学生を教育というサービスを提供している。教育と研究にはレポートやテキストなどはあるが、教育は形はないからサービス業の一つである。教育によって学生の視野や考え方が広がってもそれも形にしにくい。無形でモノではないからブランドだけが残る。大学院の講義を受けたが、会社役員をされている非常勤講師の先生は「企業で最後に残るのはブランドだけである」と言ってくれた。企業にあるストック(財産)をどうフロー(放出)していくかは時代の価値観で変わる。だから提供する商品は時代によって変化する。それに答えることのできる企業が残る。だから最後に残るのはブランドだけであると教えてくれた。

 その点大学はいつの時代も教育を学生に提供しているのだからブランドが全てを表しているその最たる例であると思う。だから大学の名前で学生のイメージも決まってしまう。しかしブランドだけで大学を見るのはどうだろうか。それは例えば就職する企業もそうだ。ブランドも大事な要素ではあると思う。しかし、大学という場を自分の中でどう位置づけして、活用するかも大事ではないだろうか。

 では大学をどう捉えるか?人によって異なるけど色々な見方がある。単に友人を作る場であったり、サークルに打ち込んだり、自分がやってみたい分野を発見したり、勉学に打ち込む。悪いケースでは変なサークルを立ち上げお金を巻き上げ婦女暴行で逮捕された人もいた。人によって千差万別である。

 私の尊敬する人は大学は「ノウギョウ」であると言っていた。私は最初なぜ「ノウギョウ」か分からなかった。多分みなさんも訳が分からないだろう。あえて私もネタがばれると面白くないから、カタカナにした。でも土を耕す「農業」ではなかった。「脳業」だと教えてくれた。ということはキャンパスは脳場であって、学生は脳夫であって、パソコンや資料は脳具らしい。学生ではなく脳夫は教授や社会から種をもらい、世話をして(考えて)、収穫(発展させて自分のものにする)ことになる。面白いたとえだと思う。

 私は大学は器だと思っている。多分東京大学は古伊万里で、ケンブリッジはマイセンぐらいの価値やブランドだろうか。多分私の大学は100円ショップで売っているお皿ぐらいの価値(社会的認知やブランド)だろう。でも器だけあっても仕方ない。大事なのはそこにどんな料理を盛りつけるかである。料理つまり知識や考え方、大学で得られる経験だと思う。勿論器が立派だと食材(情報)も豊富に集まるし、料理人(教授)も立派な方が多いと思う。でも最終的にその料理豊かにさせるのは自分自身だ。器である大学ではない。

 大学で得た考え方は前にも書いたが一つ私の皿の中にも料理が一品増えたのだと思う。そう考えれば人生が料理を増やす訓練かもしれない。大学も会社も器であってそれに固執する必要性もない。料理が出来るのであれば皿はいつでも調達できるし、いっそ自分で作ってしまう事も出来る。そうした生き方をしたいと思う。

 でもやっぱり古伊万里(東京大学)とか聞くとすごいのだろうと思ってしまう。それに負けない料理は私の器に盛りつけているかは、この文章を読んでいる人なら分かると思う。まだまだ修行が必要だと思う。

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2006年2月 7日 (火曜日)

らしくとは演技なのか

 ○○らしくしなさい。という言葉はよく聞く。例えば「お兄ちゃん、お姉さんらしくしなさい」「男らしく、女らしくしなさい」などと親に注意された経験は誰しもあると思う。これは社会や家庭の中での男女、もしくは兄弟のあり方とそうしなさいと教えている。そこには男性として、女性としての理想像が込められている。そもそも男性と女性は違いがあるから、それぞれの価値観から理想像が異なるのは普通の事だと思う。ただそれも一つの価値観であり、時代によって変化する。最近では「男らしさ、女らしさ」よりも「その人らしさ」を大事にする傾向にある。しかしその他でも「大人らしく」「先生らしく」「警察官らしく」といったように理想を求められる言葉として使われている。やはり大人・先生・警察官という言葉にはあるべき姿が誰もが想像しやすく、そうした人には常に努力してその理想に近い姿になってもらいたいものである。

 今日私は朝のニュースを見ながらその「らしさ」が胡散臭く感じてしまった。東横インの不正改造による西田社長の会見である。事実が発覚した当初は悪びれるそぶりも見せず、「それぐらいが何だ」と言わんばかりであった。それがどうだろうか、それがマスコミや障がい者団体からの猛抗議を受けて、一転昨日の会見では、「すみません」を連発して終始うつむき加減であった。誰が見ても反省しているか疑問を感じただろう。キャスターの人が失笑してしまうのも無理のない有様であった。

 反省の態度を見せるような「経営者らしさ」(経営責任を認め、反省する態度)を見せようとする姿が、薄っぺらく感じてしまう。少し無責任な言い方だが彼は役者になれば、いい芝居が出来たかも知れない。本当に上手な俳優は私の中で一つのキャラクターだけでなく、全く正反対の役柄を演じることが出来る役者であると思う。一つのキャラクターを演じるのもその道では長けているかもしれない。しかし、全く正反対の演技に対して観客をのめり込ませ違和感なく見せる。私が好きな俳優はそれが出来ている。

 おそらくだが前回の問題発覚時の悪びれない様子を見せたのが彼自身の本来の姿であろう。しかしあの姿は経営者として求められる資質以前の問題かもしれない。私も調査などで企業トップや自治体首長にお話を伺う機会があった。確かに仕事のことについて質問をしたりする空気は厳しさを感じさせてくれる。言葉の端々に責任感と歴史を感じさせてくれる。しかしこちらがきちんと事前と調べ、質問をした内容については丁寧に答えてくれた。その言葉には一つ一つに深い意味が込められている。だからヒアリングを終えてからその意味が分かってくる事が何度もあった。その一方で、普段の会話になると饒舌な方もいた。また別の会場で会ったときには向こうから挨拶をしてくれる方もいた。一番驚いたのが県内の上場企業のトップの方にヒアリングを終えて、会社の門を出て角を曲がるまで見送ってくれた方もいた。そうした方々から感じるのは人として相手を思いやる心、その人の人としてのあり方であった。

 らしさは決して演技ではない。その人が持つべき感覚であると思う。経営者として利潤の最大化は確かに責任を持つべき点である。しかしそれだけではない。企業は社会のニーズによって成り立っている。常に社会的責任があるという事だ。利害関係者は株主も顧客も関係業者も、広くは地域や社会を含んでいる。そうした幅広い視点が経営者には要求される。経営者には経営者の、先生には先生の立場がある。しかしそれ以前に人としてのあり方が大事である。人としての矛盾やほころびが、経営者という立場になっても出てしまう。もし自分の矛盾が出でしまい失敗をしても一生懸命取り戻そうとする姿が大事なのだ。それを含めて人は見ている。今回の会見や偽装マンションに関わった人々の会見などどこか胡散臭さが感じられたのは、一人の人間としての姿が、公的な立場になっても変わらず、その矛盾がクローズアップされたからではないだろうか。

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2006年1月12日 (木曜日)

古い小さな町の良さ

 私が通う大学のある地域は比較的古い町並みが残っている。幹線道路も道幅が狭く、どちらかと言えば昔田んぼのあぜ道だった道を車道に変えた趣がある。また田んぼであった土地が学生向けの新しいマンションに変わっている。言わば新しいコミュニティーと古いコミュニティーが混在する町である。特に古い町並みを歩くと面白い発見をすることがある。今回はその辺から地域のあり方や考え方を紹介したい。

 ある日東南アジアの国から来ている留学生の人と話す機会があった。その人はこの大学の近辺に住み始めて面白いモノを発見した話をしてくれた。それは高知にずっと住み続けている私にとってはあまり目新しいものではなかったので、余計に印象に残っている。それは良心市である。

 「良心市?なんだそれ」と思われる人が多いと思うので紹介しよう。高知の古い町には農家などが自分たちの産品を出店する小さなボックスがある。取り扱う商品はそれぞれ異なるが、近所の農家の人が作った野菜や果物、あるいは趣味で作っているお菓子、お花など多種多彩。その最大の特徴は名前が示し、相互の良心から成り立っている所である。まず出品者は市価よりも安い商品を提供する事。例えばサツマイモの大きなものが4・5個入っていても100円。たいていの商品が100円で買える。ハウス農家の方が出品する良心市では規格外のイチゴやトマトなども1パックで100円で買えてしまう。形は不揃いだが味はおいしい。その点で良い商品を提供する出品者の良心が重要である。(ある意味、生産者の社会的責任とも言うべきか)一方消費者も良心が問われる。この良心市には管理人は存在しない。つまり無人販売所なのだ。出品者のブースにお金を入れる箱があり品物を買えばお金を入れる。購入者の良心も重要である。このネーミングの良さにはいつも感心してしまう。

 その留学生の人は私の国ならあり得ない。みんな取っていってしまうだろうと話していた。確かにそれはあり得る。これは今の日本でも成り立ちにくいシステムである。最近ではお金を入れずに取っていってしまう人も多いとか。ある幹線道路沿いにある良心市では、農家の人が交代で管理を行っている。しかし圧倒的に無人の良心市が多い。ではどうしてこうした仕組みが成り立っているのか。私は古く・小さなコミュニティーが関わっていると思う。

 この良心市がある地域は比較的古い町並みが残り、以前からその地域に住んでいる人が多い。出品する人も自分の畑で余ったものなどを出す。その点で小遣い稼ぎの商売である。顔なじみの人が買う地域だから、不特定多数にはアピールしない。派手な看板もないので知る人ぞ知る要素もある。ただその点で相手が信頼できるという要素は成り立ちやすい。いつも無断で取っていけば、良心市は成り立たないので購入者も困る。またそんなことをやっている人も小さなコミュニティーが成立する地域ならすぐ特定される。だから取る人も少ないという点がこのシステムを確立させている。
 では私の大学で成り立つだろうか。大学は1000人単位の学生と教職員がいる。もちろん全ての学生や職員が顔と名前を知るわけない。だから良心市があったとしても、誰も見ていない・誰も関わらないという心理が働き取っていってしまう可能性は高い。お恥ずかしい話だが、私の大学にある図書館のトイレには、「備え付けてあるトイレットペーパーを取らないように」と張り紙がしてある。勿論個室で誰にも見られていないという点はあるが、性善説が通用しにくい証拠かもしれない。

 この良心市の仕組みは人は元々は良い人であるという「性善説」から出来ている。一方最近の社会は「性悪説」を前提に成り立っている方向に向かいつつある。確かに見知らぬ人から危害を加えられる事件が多ければ、監視カメラを設置しようとし、犯罪者リストを公開しようとする動きがあって当然である。しかしこの性善説と性悪説は成り立つ環境が異なると私は思う。

 人間は善人・悪人の両方の要素を持っている。ただそれが知人や知った人の目があるかどうかで大きく左右されると思う。例えばあなたと友人が町を歩いていて火災現場に出くわしたとしよう。建物の2階から救助を求める人が叫んでいる。周りに誰もいないなら多分、一方が電話をかけて、一方が助ける・もしくは協力する人を探すようになるだろう。多分見て見ぬふりをする人はいないと思う。しかし野次馬が現場に大量にいればどうだろう。多分自分も見物するだろう。さらにテレビで現場を見れば一つのニュースとしてチャンネルを変え、徐々に関心が薄れてしまう。規模が大きくとなる性善説は通用しにくく他人事で片づいてしまう。

 一方、小さなコミュニティーなら他人からの目線は結構気になる。田舎に行くと隣近所の噂や家庭状況まで奥さん連中の餌食となりやすい。私の実家も小さな村にあるから、「○○さんの息子さんが××大学に合格した」なんて話は早い早い。事実私が大学に合格した話を両親よりも近所の人が先に知っていた。CIAやFBIもびっくりするぐらい町中にスパイやエージェントがいるようだ。(誇張しすぎですが)だから下手なことはできないという心理はどこかに働くだろう。そして人との関わりが密接だから、そこら辺を遊んでいる子供も、誰が親かも分かっている。もし子供がいたずらをしていると注意もしてくれる。ある意味それも社会教育の一環であり、そうした教育から社会のルールを学んでいる。そうした教育が希薄になるもの、性悪説が成立する社会を作る要因であるようにも思う。ある人は、田舎の社会はプライバシーがない分を保険であると考えればいいと言っていた。プライバシーがない代わりに非常時には協力してくれる考え方だ。人手が限られるから相互が協力しようとする意識は存在する。例えば私の実家でも雨が降っていたら、干していた洗濯物近所の人が取り込んでいてくれ事もあった。多分都市部では考えられないだろう。やってくれても無断で立ち入ったと怒鳴られるかもしれない。やはりそこは顔を知っているからこその強みである。
 一方都市部の暮らしでは、隣近所が関わってくると、うっとうしいと感じるだろう。相互が知らないから関与しない。事実、私が住んでいるマンションでも隣は誰が住んでいるかほとんど分からない。(余談だが、私の部屋の隣の隣は後輩だから時々頼りされるのだが・・・)

 これは政治にも言える。国会議員よりは知事、さらに市町村長の選挙の方が身近に感じるだろうし、投票率も上がる。勿論町の規模が小さいと関心はさらに上がる。人口が千人単位の自治体になると投票率が80%台でも低いと新聞で論じられてしまうぐらいである。

 今社会が物事を人ごとや無関心になりがちだ。国家財政の破綻の危機が叫ばれる中、投票率の低下はどんどん進む。勿論政治家の汚職など政治不信もあるが、あまりにスケールが大きすぎて自分たちがピンと来ない所もあると思う。平成の大合併で約3200あった市町村は約1800まで減少し、町の規模も大きくなっている。大きくなればなるほど町の取り組み自分とは無関係であるとか、身近な出来事と感じられにくい。一方で地域間のコミュニティーが薄れて、重要と言われながら地域間の協労といった動きが弱まっている。

 しかし大きな町でも、古いコミュニティーが残っている地域では、町内会や自治会が率先して地域の為の活動を行っている。これは自分たちに取って身近に感じられる範囲だからだと思う。高知市も町内会はかなりの地域で組織され、ゴミの分別を町内会が行っている。そのため30万人都市であるがゴミの回収コストが安く済むため、有料のゴミ袋は存在しない。おそらくレアなケースだろう。こうした取り組みが出来るのも小さなコミュニティーがあってこそだと思う。 

 小さなコミュニティーがバラ色であるとは思わないが、住民同士が協労しあう関係は、きっと大きな箱物の施設を作る町作りよりも立派な町を作ると思う。その点でいつまでも良心市が成り立つ、ぎずぎすしない、今の町の要素がこれからも残って欲しいと私は思う。

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2006年1月10日 (火曜日)

IM革命の本質とは

 1日町を歩くとケイタイをいじっている人に会わない日はないだろう。今日私宛のメールは30件届いている。内容はメルマガ・迷惑メール・カラオケのクーポン・ボランティア連絡網からの投稿・友人からの連絡・・・・はっきり言って緊急性や非常性はきわめて少ない。でも携帯やネットがない環境ではむしろ不安になる。依存と言われているぐらい生活に必要となったケイタイやネット。どうしてここまで多くの人が利用するようになったのか。今回は少し考えてみたい。

 私のメールの内容はともかく、届いたメールの緊急性や非常性が低いのは、だいたい同じだと思う。即時性なら電話が優れているから、そういった内容は通話で済ませるだろう。でもここまでメールを活用しているのは、メールの利点(低コスト・見たときに見られる・手紙のように自分の本音も相手に伝えられる等々)以外にも何かあるように思う。それは情報化社会の本質ではないか。

 農業革命・産業革命に続きIT革命は第三の革命と言われている。この革命を制する者は今の時代を制することが可能だ。だからありとあらゆる産業や企業が、革命という名の市場(戦場とも言える)に飛び込み製品・サービスを展開している。

 しかし私は情報化というのは決して今に始まったことでなくこれまでの革命でも重要な役割を果たしておりその点では大差ないと考える。例えば農業をするためには季節の変化を読み取らなければならない。そのため天文学や暦が発達した。これらは立派な情報であり、それを活かすことで、季節の変化に対応でき、被害を食い止めること可能となった。だから農業は発展できた。

 産業革命であれば市場のニーズや原材料の調達・流通など情報が欠かせない。時代劇で思い浮かべるのはお上と越後屋との癒着。お上が地域を仕切り、越後屋が資金と情報を制しているから双方が癒着していた。問屋の影響力は地域のニーズや商品についての情報を握っている点が大きい。今のように国境を越えて経済活動が行われれば、それぞれの国ごとの情報が必要だ。その点で情報の重要度はますます高まる。でもどの革命でも情報が重要な鍵を握っていた点は変わらない。

 では、このIT革命はどこが今までの革命と異なるのだろうか。私はITよりIM(information market つまり情報化によってもたらされるサービス)の点から考えると、情報の担い手に個人でもなれる点であると思う。ITは手段である。IT機器やサービス(例えばプロバイダーなど)を提供している側はIT産業と言えるが、コンテンツを提供する側・利用する側はIT産業とは呼べない。むしろIT活用する市場を担っている点からIM産業だと、私はある人から教わった。

 これまでの革命は例えば国家やその権力者、資本家や企業など巨大な権力や力を背景にした者が情報を発信し、支配していた。特に戦争時なら国家からもたらされる情報で、国民が操られていたのは先の戦争から我々は学ぶべきである。しかし、このIM革命は国家・企業だけでなく個人もその担い手となれる。この点が情報化社会を語る上で重要だと思う。10年前に個人から社会に対して情報を発信する事を考えると手段は限られていた。しかし現代のネット社会では、個人のブログからテレビドラマが生まれ、小説が生まれ社会に大きな影響を与える事が可能となった。

 しかし、革命とは単に従来までの方法や習慣が変わる事ではない。必要なのは支配する側と支配される側の関係が変わる事である。例えばフランス革命でルイ16世は処刑され、ロシア革命によってニコライ皇帝も倒された。そして革命は次の支配者を決定する。IT革命では今まで支配していた側(つまり国家や企業)は崩壊していないが、支配される一方だった一般の市民も支配できる立場となった。その境界線がなくなった点で立派な革命と言える。

 衣・食・住に不自由しなくなった今、人間の欲求は次の段階へと移りつつある。それは知的な刺激である。コンサートのチケットを予約し、空いた時間にゲームに熱中し、動画でお笑いを見る。イベントの様子をカメラで撮影する。そしてメールは、自分が感じたことを相手伝え、共感してもらえる手段になる。自分主体で情報をチョイスでき、発信することが出来る。この情報化の世界では誰もがクリエイター(創造主、つまり神)になることができる。この楽しさが情報化によってもたらされるコンテンツを充実させ、普及の原動力になっていると私は思う。この点が本当の革命であると私は考える。

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2006年1月 2日 (月曜日)

木は伐採して環境保護

 よく田舎を紹介する時に「緑が豊かな」「自然が豊か」というコメントはよく聞く。確かに日本は本当に森林資源に恵まれている。人工衛星から見る日本は緑がよく目立ち、すこし郊外に出かければ緑の山々が広がる。

 しかし、単に山があるから自然が豊かだという事ではないようだ。私の実家も村の面積の96%以上が森林であるが、その大半が針葉樹である。杉や檜の山の光景は単一の緑一色であまりにも味気ない。それも当然である。日本の森林は大半が人工林、つまり植林された山である。そのため木材としての価値のある杉や檜が多く植林された。政府の植林の奨励、さらに地方の山間地は過疎化により休耕地にも木を植え一層増えることに。具体的なデータは持ち合わせていないが、実際にそうした地域は多い。これを自然が豊かと言えるだろうか、私は疑問に思う。

 しかも、木は単に植えればいいというものではない。木を植えて10年~30年経過すれば成長し相互の空間が狭くなる。地面に太陽光が当たらず土地が痩せ、地盤が貧弱になる。勿論木材の成長も妨げられる。そのため間伐といって野菜で言えば間引きに当たる作業を行う。以前なら間伐材は様々な利用が行われいた。10年ほどの細い木や伐採した先端などは魚や酒などのケースの材料や炭に。30年ぐらいの木材なら電柱として、土木現場などの足場材として利用されていた。勿論40年以上になれば住宅材などに利用される。植林を政府が推奨していた昭和30年当時は木材の用途はあったが現在はほとんど消えてしまった。炭は日常生活での利用は激減し、ケースなどはプラスチックが利用されるようになった。電柱・建築用の足場材などは金属・コンクリートに取って代わられた。木材の耐久性、そして経済効率性の観点が大きな理由である。その結果国内の木材の利用用途は大半が住宅材だけとなってしまった。そのため間伐はできず、多くの地域で痩せて不健康な山が増えている。本来なら間伐を行い日光が斜面を照らし、下草が生え、動植物にとっても豊かな環境が出来る。しかし下草が生えず、木材が空を覆い尽くす山は自然とはかけ離れた無機質な環境となってしまった。人工的な植林、荒廃した環境。人里に熊や猿、イノシシが現れるというニュースの裏にはこうした現状がある。  

 そこで山の環境を健全な状態に近づけるには、利用方法を開拓する必要だ。多少経済合理性に劣るとしても、木材は循環し再生産可能な資源である。その点を考慮した上で、金属やプラスチックから木材に戻すのも一つではないかと思う。さらに新しい用途を広げることも大事だ。例えば私の名刺は杉を使用している。和紙のベースに杉をスライスした板を糊で貼り付けて出来ている。無論コストは高い。ただ木の手触り、香りからすぐに覚えてもらうことができる。渡した人からこんなにすぐに覚えてもらえれば価値はあると私は考えている。今までに色々な人に渡したが、ほとんどの人が興味を持ってくれる。むしろ興味を持たず、すぐにケースに入れてしまう人は、あまり私に関心がないことを表しているので、その点でも分かりやすい利点もある。  

 我々は森林に関する問題を海外からよく聞く。例えば熱帯雨林の伐採や砂漠化などが主なものである。そのため森林資源の保護にはある程度感心があったり、企業も植林を社会貢献の活動として行っている。ただ日本ではその逆であることをほとんどの人が知らない。木材として利用されないまま放置された山林はかなり多い。そうした状況が山の環境を悪化に追いやっている。そうした木材も手伝ってこれから大量の杉花粉が飛散するであろう。花粉症で悩んでいる人も多い。単に花粉だけの問題ではないが、木を切ることで森林環境の保護の視点も必要ではないだろうか。

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2006年1月 1日 (日曜日)

タレント普及論

 はじめに、メッセージを書き込んで頂きありがとうございます。ほどほどにがんばりますので、どうぞよろしく。

 さて、年始年末のテレビを皆さんはどれぐらいご覧になっただろうか。私は普段あまりテレビを見ないので新しいタレントをチェックしながら見ています。
 タレント・芸人はある意味使い捨ての部分が多い。最近のようにタレントのキャラだけに頼る番組構成は何度もそのネタを繰り返すことになりいつの間にか視聴者も飽きてしまう。そう言えば赤と青のジャージを着て歌っていたコンビ、黄色の派手な衣装で「ゲッツ」て叫んでいたやつ、坊ちゃん刈りで、ぼそぼそつぶやいていた人はどこに行ったのか。そのぐらい栄枯盛衰が激しい世界とも言えます。
 ただ単に自分の持ちネタやキャラを持っていても、それを使わなくとも通用している人も多い。例えばガレージセールは以前は「and dance」って言っていたなか?登場する時に踊っていた。藤井隆は「hot hot」って新人の時には叫んでいたのは覚えているだろうか?つまりどこかで自分の持ちネタから歌手やボケ・珍回答で見せたり、あるいは司会へ進化・発展させていると考える。

 タレントにも時期があり、求められる質があると考える。それを4つのゾーンに分けることができる。私はそれを「普及期」「拡大期」「成熟期」「後退・転換期」と定義する。では実例を挙げながら確かめてみよう。
 「普及期」新人としての新鮮さ・勢いで受けてしまう。だから一発や含めて多数のタレントが乱立するため際だったキャラクターが必要にもなる。だがあまり何度も繰り返すと切れ味を失ってしまう。今で言えばレーザーラモンHGなどは当てはまると思う。
 「拡大期」自分のギャグではもう通用しない。何か新しい特技を見いださなければならない。これはやはり難しく、多くの芸人はここで転身が図られず消えてしまう。時には相方と別れ別の方向に進むこともある。ぐっさんでおなじみの山口智充さんなら相方に頼らずに自分の得意なモノマネや語り口がウケて活躍の幅を広げ、CMでもよく見かける。ボビーはK1などにも挑戦しており拡大期の最初の時期ではないかと思われる。
 「成熟期」もう若手芸人とは言われなくなり自分の番組も持てるぐらいになる。自分のネタはある意味百発百中に近い精度になり、受けをねらえるようになる。爆笑問題の二人はこのゾーンに達しているだろう。彼らの笑いのセンスは私は好みである。あれだけ番組や本が売れているなら多くの人に受け入れられている証拠でもある。
 「後退・転換期」ある意味笑いはそこまで要求されなくなる。そしてバラエティーより他の分野での活躍が多くなる。例えば政界転身もあり得るし、自分の趣味の分野で名をはせるようになる。もし笑いが求められたとしても誰もが笑ってくれる。もしくは師匠だからとかご愛敬で笑ってくれるようになる。ただ、現役の時ほどの切れ味はなくなっているのは確かだ。「もみじまんじゅう」で名をはせたB&B。いつまでそのギャグをやっているのかと思うタレントも見かけるのではないだろうか。それはすでに後退期になっていると思われる。一方もはや芸術家と言っていい片岡鶴太郎さん、政治家として活躍された西川きよしさん、タレントでも健在だが映画監督の方が世界に知られているビートたけしさんなど別のジャンルで活躍される方も年配の人では見かける。

 もちろん笑い第一線で活躍されている人もいる。その点で最後の「後退・転換期」は必ずしも当てはまらないだろうが、それぞれのタレントさんに当てはめて見るとこの人は次どうなるべきかが分かると思う。これは単に芸人だけでなく自分にも当てはまる。例えば新人なら多少のミスは許されるだろう。むしろ自分の能力を存分にアピールするべきだ。しかし10年ぐらいやっていればそれだけではダメだ。部下の管理能力や次の能力開発が必要になり、ミスは許されない。という具合だ。自分の組織でのポジションに当てはめて考えてみるといい。自分がどのレベルを求められているかでやるべき事が見えてくると思う。

 話を戻すが、今年はどんなタレントがメディアを騒がすのだろう。昨年ブレイクしたタレントはどう展開するのだろう。いずれにせよタレントの展開は本人の努力と時代がどんな笑いを求めるかだ。時には受け入れがたい笑いを提供する芸人も登場する。やはりそれも時代を象徴しているのであると理解したい。

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